好かれたいなら嫌われろ
好かれたいなら嫌われろ
嫌われたくないなら好かれるな
一度くらいは耳にしたことはありそうな、当たってるような、間違っているような、不思議な言葉のような気がするが、俺は間違ってはいないような気がする。
嫌いにもなれないような人を好きになることはないような気もするし、嫌いとわざわざ言うような人のことは、どこかで気になっている証拠のような気もする。
ファンが多い人はもれなくアンチがいて、ファンが全くいない人にはアンチもほとんどいない。比率でみれば偏りはあるが、全く嫌われてないけど好かれまくっている人、逆にめちゃくちゃ嫌われているけど全く好かれていない人というのは本当に珍しい。
だからと言って、逆算して行動するのはどうかと思うが、考え方の一つとしては成立しているのだろう。
自分は嫌いだが、炎上商法や、とりあえず目立つの精神はこういう所から来ていると思えば、好き嫌いを一度置いておけば合理的な考え方のようにも思える。
でも、これが正解と言われている間は生きにくい世の中だとは思う。
自分の考えとしては
俺は嫌われたくない
だから出来る限り、嫌われないように、好かれないように行動しようとしてきたことが多い。そう思って生きてきた。
だけど、どこかで好かれたいのかもしれない。
頭では嫌われないように、即ち、好かれないようにしようとしているつもりではいるが、よく間違いを犯す。
頭では分かっていても、そう言う事が良くない、そうすることは悪いと思いながらも間違う。そして鬼の後悔をする。
何をすべきかもわかっていて、そうしたらよくないとも思っていて、間違う。訳が分からないと言えばそれまでだし、頭がおかしいとさえ思う。
自分の人生を振り返ると、好かれたくないと言えるほど嫌わる行動をせずに来たのかと言われると、そうは言えない。それくらい間違ってる。
嫌われたくないという事は間違いなくある。
環境にも恵まれ、運にも恵まれ、今まであまり嫌われることは少なかったが、嫌われるのは本当に辛い。
でも、最近というか、本当はずっと昔からだったような気もするが、誰かに好かれたいという気持ちが少し見えたような気がする。
自分としては少しショックのような、悪い奴になったような嫌な感情ではあるが、本当の自分というか、頭で考えてる自分じゃない自分を少し見れたような気がして、進めたような気もして、悪くもないと思う感情もある。
だけど、中々嫌われるように動くという事は難しい。
分かっていても、一度してみるというだけでも、自分にとってはハードルは高い。
好かれたい欲よりも圧倒的に嫌われたくない気持ちの方が大きい。
でも、好かれたい気持ちが無い訳じゃない。
だから間違う。
筋の通ってない、訳の分からん人間だ。
嫌われたくないけど好かれたい。
ほとんどの人はそう思うと思うが、これは中々難しい。
どうするのが正解なのか、その人自身で納得できる形で生きられれば一番いいのだろうが、今の自分にはそれが全くなく、ただその答えを出すことから永延と逃げているような感じがする。
だから病気にもなるし、どうしていいか訳が分からなくなり、いざ動き出しても間違う面倒くさい人間になってしまっている。
ここをどうにかしないと、多分自分のうつ病は治らない。
嫌われてもいいと、嫌われようと、好かれたいと、堂々と言える日が来るのは自分としては今も怖いが、上手く生きようと思えば、こう思う方が良いのかもしれない。
つくづく不完全な人間だと思う。
もし自分の生活圏内にうつ病の人がいたら、今まで通りに過ごせますか?
もし家族が、友達が、恋人が、同僚がうつ病になったら、今まで通りに接することが出来るか?
多くの人は難しいのではないかと思う。
そもそも、うつ病の人に対してうつ病でない人と同じように接することが正解なのか、何かしてはいけないことがあるのか、何かすると良いことがあるのかすら曖昧であるので、同じように過ごすことを出来ることが良い事であると、言い切ることも難しいように感じるが、たとえ正解が無くても、多くの人がなりうる病気なので、一度くらい考えてみてもいいような気がする。
そして、少しでも多くの人が考ることはうつ病の社会復帰というものは近づくように思う。
うつ病は甘えじゃない、しんどい。うつ病の人がいたら、しんどそうな人がいたらこうしてあげて欲しい。うつ病の人にこういう事を言ってはいけない。
こういった類のことは社会の中でも溢れるほど存在していると思う。これらが悪いとかではなく、むしろ、うつ病という病気に対する認知を高めるためには凄くありがたい事であるようにも感じる。
しかし、本来はここで終わりではないはずなのだ。
認知度を高め、多くの人がどう接することが良いのか、こういった病気を防ぐためにはどう生きるのが良いのかなど、うつ病に対する対策や、対応を深めることが目的であったはずだ。
しかしながら、こういった情報が世に出てきて、今となっては溢れかえっているとも言えるような状況にもかかわらず、その先に進むことはない。今後そうなっていきそうな予感すら感じない。
いつまでも、うつ病は甘えじゃない。そこで止まっている。それ自身がまだ認められていないという事もあるのだろうが、そこから進む気配すらない。
どうしたって、関係のない病気なのだ。
理由の一つとして、難しさがあると思う。
正解がないもので、死ぬ可能性もある。付き合っていくとなればほんの一時的にという事は難しく、何年、何十年と付き合わないといけない。
それだけの余裕がある人がたくさんいるとは思えないし、それだけの労力を他人のためにかけられる人間というのは多いとは思えない。
もう一つの理由としては、今ある社会の常識や善悪が間違っていたり、真逆であるかもしれないという事を認めることは非常に難しいという事にあると思う。
例えば、「頑張る」という事。
「頑張る」という事に対するイメージはしんどいとか、辛いイメージもあるが、偉い、凄いと言った良いイメージを持つ人が多い。
何かを成し遂げた人がいれば、この人はこんなに頑張ってきたのだと言うし、頑張ればいい結果が来る、または逆に、いい結果を出すために頑張れと言う。
頑張るという言葉の意味に対して、意味のあるなしについて語られたり、内容について触れられることはあるが、前提として頑張ることは良い事とされている。
しかしながら、うつ病の人間に対してとなると、真逆になる。
知らなければ嘘みたいな話だが、うつ病の人に対して頑張れと言う事は禁句とされている。
すでにもう限界まで頑張っているからとか、頑張ってきた人で、今は休憩が必要な人だからとか、当事者からしてみれば訳が分からない理論を言う人もいるが、うつ病の人は頑張ってはいけないらしいのだ。
迷惑をかけることに対してもそうだ。
人に迷惑をかけるな。
それだけを指示している人間も多いのに、うつ病になると、全然迷惑じゃないから、迷惑かけてもいいのだと言われる。
うつ病になると突然、社会が求める生き方が変わる。
死なれたら困る。辛い所から何とか救いたい。という考えから来ているのだろうが、そんなに簡単に人間は変われるものではない。
自分はこの病気になって9年、今までの生き方を否定して、必死でその考え方を呑もうとした。かみ砕いて、色々な考え方に触れて、それだけを9年間してきたと言ってもいいくらい考えてきたが、それでもまだ呑み込めない部分がある。
どこかやっぱりおかしいのだ。
うつ病の人間。うつ病というものを社会は受け入れられていない。むしろ排除しようとしていると、不本意だし、そういう風には考えたくはないが、そういう風に考えざるを得ない社会が今存在している。
否定したいわけでも、被害者になりたいわけでもない。
自分のことだけを考えるなら、それで仕方がないと自分は思ってしまうのだが、自分以外の苦しんでいる人が存在していることを考えると、胸が詰まる。
しんどさを知っている分(その人のしんどさというものはその人にしか分からないとは思うが)、何もせずに生きていくことが難しい。
今の社会にとって、難しい問題であることは理解しているつもりだし、簡単に改善なんて出来ない問題であることは分かっている。
だけど、うつ病がこれだけ認知された今となっても、自分と凄く近い人に対してであっても、その人を今までの自分の世界の中に存在させることすら出来ないというのは、希望を完全に断たれたような気持ちになる。
うつ病の人と、そうでない人を区別している。
なってしまった人に対して対応を考える。しんどそうな人がいたら何かをする。
今の当たり前はこうある。色々な講演だったり、研究者の発言でもそう言われているのだ。
これが間違っていると言うの驕っているのかもしれないが、こうやって区別し、うつ病というものを社会の中に入れることを拒否し続ける限り、この病気は社会にとって脅威であり続けると思う。
だからと言って、すべての人に頑張るなというのか。人が皆うつ病かもしれないといと思って気を遣って生きることを求めるのか。そう反発する人がほとんどだと思う。
極端だと思われるかもしれないが、自分の考えとしては、そうだ。
うつ病になったから接し方を変える。これでは助からない。
うつ病の人への対応ではなく、社会における人間関係の常識を変えなければ、うつ病は助からない。
間違っていると思われると思う。なんなら自分もそう思う。
もしこうなってしまえば人類としての成長や、国家の成長は鈍化するだろう。
だから、こうなって欲しいとは言わない。
だけど、こういったことから目を背けて、助けたいとか、助けようとしていると勘違いすることは非常に残酷だ。
何も変わらず過ごせるという人以外はもう一度考えてみて欲しい。
なんか地に足がついた感じがする
地に足が付く。
堅実な印象や、落ち着いている感じ。しっかりとしていて、現実を見ている感じのイメージだが、まず初めに自分は今落ち着いてはいない。
いや、落ち着いてはいない訳では無いのかもしれない。そわそわ感というか、恐怖感、苦しい感じ、なんと言うか、うつ病の症状としては非常に悪い状態にあると思う。
だけど、なんか落ち着いているというか、文字通り足が地についている感じがする。
良い事なのか、悪い事なのかは分からない。
普通は良い時に使う言葉なのだろうが、逆に言えば、背伸びして色々夢見たりしていないともいえる。
それに現在、自分はうつ病で、足を地につけてしまったら、景色がもう真っ暗だ。お先真っ暗とはよく聞くが、先どころか後も横もどっちに行こうが真っ暗。何にもできる気はしない。
だけど、なんだかよく分からないけど、あまり悪い気はしていない。
確かに何もできない。
勉強どころか考える事もままならないし、動けないどころか、動こうとすら思えない。
親のおかげで何とか生きては行けているが、ただ寝て食べて洗う。それだけで精一杯だ。
だから普通に考えれば悪いのだろうが、何故かそんな感じはしていないのだ。
ただ何もできないだけ。そういう風に捉えている。
不思議と言えば不思議な感覚だ。8年この病気と付き合ってきたが、初めての感覚かもしれない。
何かしなきゃ、学校行かなきゃ、課題しなきゃ、外でなきゃ、運動しなきゃ、どれだけそういった焦りや不安に繋がる可能性のあるものを考えないようにと思っても出来なかったのに、今は何もしていないのに何も考えていない。
それ以上に考えなさすぎなのかもしれないが、出来ているともいえる。
別に治ることを、社会に戻ることを諦めたわけでは無いとは思うが、今はしたいことも、しないといけないと思う事も無い。
ただただ生きているだけだ。
だけど、ただ生きているだけと言う事に嫌な感じもしていない。
ただしんどいだけ、ただ何も出来ないだけ。
だから何もしない。ただ生きている。
そういう状態だ。
無欲というか、無気力というか、そういった言葉が近いのかもしれない。
だから、見えている世界が真っ暗になっても怖くない。ただ真っ暗なだけだから。
今までは普通の生活がしたいとか、楽しいと思いたいとか、この延々続く恐怖感から解放されたいとか、欲というか希望があった。
それは良い事なのかもしれないけど、そう思うことは自分にとっては凄く背伸びをした考えで、全然できないし、出来る気もしないから怖くなったり、不安になっていたのかもしれない。
だからと言って、この状態が良いとは思えないようにも思う。
自分がずっとしたかった休んでいる状態と言えばそうだし、悪くないともいえるとは思うが、もしこれが休んでいる状態で、良い状態なのだと思おうとすると、違和感を覚える。
こんな無気力で、ただ生きているだけの人が良い状態。自分が当たり前というか常識に捉われているので、そう思えないだけなのかもしれないが、何かが違う気がしてしまう。
自分自身、今の状態を別に悪いとも思ってないので、本人がそうなら良いとしても良いような気がするが、これを休んでいる状態というのであれば、休むことをお勧めしてくる人の気持ちが分からなくなるし、自分はこの先うつ病の人に休んでとは言えない。
しんどいのはしんどいので変わらないからだ。
焦りや不安は無くなっていない。これをしないととか、これが嫌だとか具体的な内容は無いが、元々の不安感や恐怖感はすべて内容があってのことでは無かった。
何とも言えないこの気持ちは無気力になっても消えない。
ただしんどいだけと、自分の捉え方、考え方が変化しているだけで、しんどさはある。
むしろ、今は自分は調子が悪い時なのでそうなのかもしれないが、そういった気持ちは強い。
でも、外的要因によって揺れることは減ったかもしれない。
どんなことが起きても、「へー」という感じで、何事にも興味や関心が無い。
だから感情的になることも、嬉しく思うことも、悲しく思うことも、焦ることも、ゆったりすることも無い。
本当に無になってしまったかのようだ。
何が起きても、ただ何かが起きただけ。
良くも悪くもそうしか感じられない。
不安要素を取り除こうとしたからこうなったのか、こうなれたのか。
そういったことは関係なく、ただ、今こう言う状態なのか。なにも分からない。
一時的なものなのか、数か月数年こういう期間があるのか、一生こうなのか、それも分からない。
分からないことだらけだけど、それすらも今はもうどうでも良い。
どうでも良い
本当にすべてがどうでもいい
また何かあれば書く事があるかもしれないが、今はこれ以上は考えられないみたいだ。
良いか悪いか分からないが、どうにもしようが無いのもあるし、ただ生きてみようと思う。
どうでも良いけど。