20歳から11年、いまだにうつ病に苦しむ人間の頭の中

20歳までは順風満々だった男がうつ病になり、すべてが終わったと感じてから、日常生活をぎりぎり生きられるようにまでは戻った人間の現在

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心の傘はありますか

何となく机の前に座ったら雨が降ってきた。その時ふと思ったことなので頭の中が整理されてはないのだけど、何となく書きたくなった。

 

いつもなら携帯のメモ帳に、いつになっても記事にならないような謎の文言の中の仲間入りさせるか、何もせずボーと考えて終わるのだけど、こういう時に書いてみるのもいいのかもなって何となく思った。

 

多分暇すぎるのもあるのだと思う。大学は冬休みに入ってしばらくないし、色々出来ると言えばできるし、やったほうがいいのだろうけど、もうどこからが無理をしていて、どこからが無理をしていないかもよくわからないので、怖くて何も出来ない。

また大学が始まったとき、ちゃんと行ければ、それ以外は今はもうどうでもいいから、下手に何もしないでおこうと思っているのだけど、何もしないというのもまた辛いんだ。

 

こうやってブログを書くことをするのもいいのかわからないが、ダメならダメでいいや。これでだめなら多分、冬休みの課題は終わらない。

 

心の傘はありますか

タイトルにこう付けたが、書き始めた時、タイトルでさっそく詰まった。

今思ったことだから整理されていないのは確かにあるが、書きたいことは明白にあったのに、タイトルがよくわからなかった。何となく書いてみて最初は違う気もしたが、こういう感じの方が変に擦れなくていい感じな気もする。

 

雨が好きな人もいると思うけど、自分は雨は嫌いだ。

濡れるし、何かで防いだり、建物の下を探したり、やらなきゃいけないことが増える。なんだか面倒な感じになる。色々中止になるものもあったり、滑って危なかったりもする。

 

人は雨が降ったとき、基本的に傘を差す。濡れたくないし、濡れたら冷えたり、服が重くなったりして嫌だからだ。

でも差さない時もある。単純に傘がない時。スポーツなどをしていて差せない時。めちゃくちゃ急いでいるときなんかも、差さずに走っている人もいるかもしれない。

 

でも、スポーツ中、急いでいるときは雨はそんなに気にならない。確かに濡れるし、地面はどろどろになるし、嫌だけど、やっている最中はそこまで気にならないことは多い。それどころではないし、夢中になっているからだと思う。

 

じゃあ特に何もしていない時、傘がなくて、ただずぶ濡れになったときはどうだろう。

 

なかなか経験がある人は少ないと思う。普通、そんなときは雨宿り出来る所を探したり、目的地まで急いだり、傘を買える所まで急ぐからだ。

 

ただ濡れている人なんていない。多分、家の概念がない時代も濡れない場所を探しただろう。

 

自分は一度だけある。多分頭がどうかしてしまってたんだと思うが(今もどうかしているが)、何となくしてみたかった。

 

思ったよりも濡れて、冷えて、そして何よりも、ものすごく時間が長かった。

 

「止まない雨はない」

 

つらい思いをしている人などによく言う言葉だけど、何時間も雨と真摯に向き合って、降った時から止んだ時まできっちりと打たれて、この言葉を使っている人はどれくらいいるのだろう。

 

自分はたかが2.3時間打たれてただけだけど、止まない雨はある気がした。それぐらい長かった。傘があればいくらでも待てるし、どうってことない時間だけど、傘がない人にとってはこの言葉は何の意味もなさない言葉だと思う。

 

つらいことは誰にでも降り注いでいると思う。

それこそ雨のように。

地域差があるように、個人差はあるとは思うが、ほとんどの人につらいことはある。

 

だから、うつ病というものの理解は進まないし、気持ちがわかるなんてことにはなれない。

甘えだと言う気持ちも分かるし、あいつだけって、俺もしんどいのにって思う気持ちも凄くわかる。

 

でも傘がなかったら、小さい雨でもきついんだ。

 

どれだけ降ったとしても、傘があれば大抵のことは大丈夫だし、何かに熱中できている間は平気だ。

 

でも強すぎて壊れたり、怪我してしまったりして止まってしまったら、

傘の無い人になってしまう。

 

すぐに新しい傘を用意できればいいけど、どこに売っているかもわからないものだから、怖いんだ。

 

きついんだよ。しんどいんだよ。

当たり前のように現実世界では傘があるけど、どれだけありがたいことか。

 

気を付けてって言ってもどうしていいのかわからないけど、傘をもっと大事にしてほしい。

 

何かに熱中出来たら大丈夫かもしれないけど、体力は無限じゃないから、間でベンチだったり、建物の中で凌ぐでしょ。終わったら傘差して帰るでしょ。

傘は大事なんだ。

 

 

心の傘って具体的になんだって言われると、何にも言えなくなってしまうけど、イメージは出来ると思う。

 

簡単に言うと、無理しないでって言いたかった。

 

壊れたら、修理するのに時間がかかるから、これも個人差はあるだろうけど、直るまでどれだけつらいか。

なったことある人にしかわからない恐ろしいつらさなんだ。

 

そして、当たり前にあるものじゃないんだ。壊れるし、無くすし、いつの間にか無いことだってあるだろう。

 

でも、そんなことは関係なく、雨は降るんだ。

 

だから、出来るだけ心の傘を大事にして欲しい。

そして、もし余裕があったら、家族だったり、友達だったり、恋人だったり、誰か無くした人がいたら入れてあげて欲しい。

 

本当につらいから。

うつ病として生きていく

うつ病になって8年がたった。未だに治る気配は感じない。めちゃくちゃしんどい時もあったし、だいぶましになったときもあった。もう、なる前の生活を忘れ始めているかもしれないし、なる前の生活を送れるようになるとは思えなくなってしまった。

 

でも、なんか表し方が間違っているのかもしれないが、今はそこまで悲観はしていないかもしれない。治る気もしないのは正直相当つらい、毎日何もできず、ただ苦しみ続けるのも相当きつい。もういつ死んでも構わないと思い続けているし、そんな考えも、はるか昔に通り過ぎてしまったような気もする。

 

今もし治ったら、なんでもできるような気持ちはある。社会に大きく役に立てるし、みんなを幸せにだってできると思う。10年近くのブランクはあるけど、20までできてたことを今もし出来たら、そこからそこそこ劣化していたとしても、まだまだ出来ると思う。何百人を前にしても盛り上げられたし、勉強だって、浪人生を入れても全国3桁に入れたことだってあった。医学部に入れたし、スポーツはそこまでだったけど、友達もたくさんいて、あれだけ幸せに生きていたんだ。だから治したいし、治りさえすればっていうのはある。

 

でも、これは「もし」の話で、「もし治ったら」の話だ。こうやって過去の栄光にすがるのも嫌だし、こんなプライドを捨てきれないから、今もこんな状態な気もする。

 

もし治ったら、楽しいことが待ってる。楽しくなかったとしても、もし治りさえすれば、普通の生活ができる。それがあるから、今まで耐えてこれた。

だから、こんなことを思うのはいけないことなのかもしれないけど、今はもう俺は治らないって思う。

 

諦めたわけじゃないとは思う。治るなら治したい。だから病院にも行くし、出来るだけのことはしようと思う。だけど、もう治すとかそういうことじゃなくて、うつ病として生きていくしか、未来はないような気がするんだ。

 

うつ病として生きていくと簡単に言ったけど、簡単な話じゃないのは分かっている。

学校だって、今年の後期から復学してみたけど、責任をともわない大学でさえ週に4コマで限界だった。4コマでも全く余裕がないし、いくつか落とすかもしれないほどだ。もし社会に出れば、全く働ける気もしないし、働けなければお金も手に入らない。生活が出来ない。

家にいたって、毎日ご飯を食べて、体を洗って、寝てという基本的なことすらギリギリで、趣味なんて何にもない。テレビの画面が眩しくて、2つ以上の音を聞くとうるさくて、人が周りにいるだけで苦しい。人混みなんて出られないし、買い物に行くのも調子のいい時しかできない。

 

今は親が助けてくれるから生きられているけど、心がいつまで持ってくれるかわからない。ここにお金の心配、仕事の心配なんて重なって生きていける気なんて全くしないけど、この状態で生きていかなきゃいけないんだって思う。

 

もう仕方がないんだ。いくら才能があったって、いくら能力があったって、いくらいい人だったって、どんな人であったとしても、うつ病になってしまったんだ。

治れば色んなことが出来るだろうし、自分の能力を使う機会もあるだろうけど、それはもし治ったらの話で、現実の自分は出来ないんだ。

うつ病として生きていける自信は全くないけど、生きてくしかないんだ。

治る気がしないんだよ。。

治すとかそいうのじゃなくて、この状態でどうやって生きていくか、そればかり最近考えてる。

 

夢も希望も無いけど、そういうのもな気がしてしまう。

 

 

こんなこと言うと、失礼な話だし、言うべきじゃないかもしれないけど、治らない病気にかかったり、事故などで何かを失ったり、そこと同じように、うつ病というのは、心が砕けてしまったようなもので、取り戻せないような気もする。死ぬまで付き合う病気な気がする。

 

確かに、うつ病になって治ったという人はいるし、治っては無くてもある程度戻って、社会に戻られた方もいる。だから希望をどうしても見てしまう。

だけど、こうすれば治るとか、何年で治るとかは無くて、ほぼ奇跡のようなものじゃないんだろうか。って思ってしまう。

自暴自棄になっているんじゃなくて、治るのを夢見て、奇跡を信じて待っているのにもいつか限界が来るだろし、戻ったとしても、どれくらい戻るかわからないし、なる前の生活をしていてなったんだから、治ったからといってまた同じ生活をすることは出来ない。

 

夢を捨てる。希望を捨てる。これはうつ病になったときの自分には考えられなかった。「治したい」それだけを考えて生きてきたし、耐えてきた。でも今はなぜか、自然とこう考えるようになっている。

 

この考えが正しいのかどうかは分からないし、何となく間違っているような気もする。こんな理不尽なことが許されていいのって信じたくない気持ちもある。

でも実際うつ病になって、うつ病の自分として、こう感じてしまうのだから、間違ってないような気もする。

 

嫌だけど、信じたくないけど、そういう病気なのかもしれない。

極論を言うと「良い」とか「悪い」っていうものは存在しないんじゃないか

犯罪はダメです。悪いことです。そういうルールの下自分たちは権利を与えられているだけなので、してはいけません。

最初にこれだけは前置きしておきます。

もしこれを読んで何かしてしまった場合も一切の責任は負えませんので、そこだけは勘違い無いようお願いします。

 

 

 

よく、良いとか悪いとか言われてるし、自分も言っている。だから無責任な話になるのだが、どうもこれらは個人の感想であって、絶対的に「良い」とか「悪い」ということは存在しないと思ってしまう。

 

最初に大前提として犯罪は悪い。と書いたが、これも国民の多くがこれは悪いと思っていることがあって、その国民が投票したもので形成された国会という立法機関が作った社会を円滑に進めるためのルールでしかないといえばそれまでで、その法律がいいとか悪いとか言われると、分からないと思う。

現に、過去にあった治安維持法ニュルンベルク法をみても、当時は法律としてあったが、今となってはそれを守るのがいいかと言われるとそうは言えないと思う。

別に今ある法律に文句があるわけでも無いし、未来から見てひどいと思われると思っているわけじゃない。ただ「良い」かどうかは分からないという意見もあると思うというだけだ。

繰り返しになるが、良かろうが悪かろうが法律を破ってはダメです。

 

ちょっと難しい話になってしまったが、法律はいったん置いといて、この社会に良いとか悪いことって存在するのだろうか?

 

周りが喜んだら良いこと。周りが悲しんだら悪いこと。結果論では言えそうな気もする人もいるかもしれないが、どこで区切って判断するのかというものもない。その時は嬉しかったけど、後々嫌だと思うことなんてこの世にはあふれるほどある。

小さな親切大きなお世話

かわいい子には旅させよ

という言葉もある。何かをするということが、主語の意思と思うようにはいかないと思う人が少なくない数いるという証拠じゃないんだろうか。

 

ほとんどの人が良いことをしたいと思っていると思う。それが周りのためだったり、自分ためだったり、理由は様々だとは思うが。

だが、良いことというものは、多くの人がそう思っている、周りがそう思っている、自分がそう思っているなどの「良いと思っていること」に過ぎないのではないだろうか。

 

こんなことをずっと考えていると、何にもできなくなる。良いことなんて存在しないからだ。何をしようと相手がどう思うかなんてわからないし、良いことをしたつもりが、凄い悪いことを引き出してしまう可能性は捨てられないからだ。

 

そこで

やらない善よりやる偽善という言葉が生まれたのかと思う。

うだうだ考えてても何にも出来ないんだ。だから例え偽善であったとしても良いと思ったこと、思うことをやったほうがいいという考え方だ。

自分はこの言葉は凄い怖い。思考放棄しているし、悪用される可能性も大きい考え方だ。それこそ「やらない善よりやる偽善」という言葉を良い言葉とするのはおかしいと思う。

 

 なら、やる偽善よりやらない善かと言われると、そういうわけでもないと思う。結局何が言いたいのか分からない文章だとは思うが、自分の意見としては良いとか悪いとか、そもそも存在しないのではないかということだ。

 

ある一定の地点から見れば良い、悪いはあると思う。しかし、それがいつまでも変わらないとはどうしても思えない。

 

じゃあどうすればいいのか。ということになってくるとは思うが、自分の考えとしては、行動を起こすという基準を「良いことだから」ということに持っていかないほうがいいような気がする。ということだ。

 

自分がそれがいい、それが正解だと思えばやっていい。どんな事だろうと、犯罪でなければやっていいと思う。だけど、それは良いことなんだと妄信してしまうと、後で非常につらい目にあってしまう。

 

何をするにしても、誰かに何かしらの影響を与えるし、何より自分の時間、体力を使う。そして自分の考えにそれは非常に作用する。

しかしそれは「自分が○○をした」ということなだけで、正解だろうが、間違いだろうが関係ないことだと思う。

 

問題は納得できるかどうかで、もしそれが悪いことであったとしても、納得できる必要があると思う。どれだけ反省しようが、過去にそれをしたことは変わらないし、自分が正しいと思って行動したことなので仕方ないのだが、この「納得」という所が非常に難しいように自分は思う。

 

自分は物事をする前に非常に考えるタイプで、今まで間違ったこともしてきたが、きちんと考えてやってきたつもりだったし、納得できていると思っていた。

しかしながら、どこか自分の中の良いとか悪いという基準をどこかで考えて、そこにすがっていた部分もあったと、振り返ってみて思う。

 

世間的にみて、自分はうつ病になるまで悪い人間ではなかった。これでもかっていうくらい順風満々で、友達もたくさんいて、非常に楽しかった。

自信もあったし、自分の人生に満足していたと思っていた。現役で医学部に入り、部活も楽しくやり、学校の人気者で、悩みもなかった。今うつ病であるとか関係なしに、お前はうつ病とかにはならんやろなって言われていた。自分でもそう思っていた。

でも、自分は今うつ病で、もう8年にもなる。

何かが間違ていたとかは思わないし、何かされたわけでもない。でも、間違っていたのかもしれない。

 

正解だと思っていた。多分今考えても正解と思うような行動のどこかに、間違いがあったのかもしれない。もしかしたら正解を選び続けているのかもしれない。

しかし、今、自分は周りに迷惑をかけている。

周りに喜ばれよう、周りのためだけを考え、自分の意思を無くすほど周りのために生きてきた人間が、周りに迷惑をかけて生きている。

 

人生は難しい。社会も難しい。何がいいのか悪いのか、分からないから無いということに逃げているだけなのかもしれない。だけどいいと思ってやってきた事が違ったのだと心の底から納得できないと自分はここから抜け出すことすら出来ないように感じる。

 

皆さんはホントにいい人だと思うし、悪いなんて言いたくない。

だけど一番は自分の苦しみを誰にも味わってもらいたくない。

壁に当たったことのない人、挫折しなかった人は脆いなんて言われることもあるが、良い人間ほど、悪いとなった時のショックの大きさは大きいのは凄くよくわかる。

 

そもそも良いことなんてない。悪いことなんてないと思って生きたほうが、人生を進みやすい、うまく進める。そのほうがあっているような気がして、こうやって文章にさせていただきました。

 

良い側にいたい。その気持ちは凄くよくわかる。でもその気持ちは非常に怖い気がする。この考え方自体が正解だとも思わないが、一つの考えとしてはあるのかとは思う。