28歳うつ病大学生の頭の中

20歳までは順風満々だった男がうつ病になり、すべてが終わった今思うこと

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休むということが分からなくなる原因

休むことの意味が分からなくなる。過去にもこういった記事を書いたが、何となく自分の中で進展があったので続きというわけではないが、書いてみたいと思う。

 

内容は特に関連があるというわけではなく、独立した記事なので過去のブログについては気になった人は読んでいただけるとありがたいが、別に読まなくても大丈夫です。

 

ta-bo-50.hatenablog.com

 

休むなんてことは、普通に生活している人からしたら、出来ない意味が分からないと思う。寝ればいいし、仕事をしない、運動しない、好きなことをする。なんだっていい。いくらでも休めると思う人も多いと思う。

 

だけど、うつ病の人間は休めない人が多い気がしている。自分に関しては完全にそうだ。

 

別に何かしているわけでも無いし、誰かと会うこともない。

気を遣わなければいけない場面も無ければ、頭を使わないといけない場面もない。

なった、なっている人間からすれば口が裂けたとしても言えるようなことではないが、しんどいことなんて何もない。

 

だけどしんどい。

それもめちゃくちゃしんどい。

言葉なんかには絶対出来ない自身もある。史上最強レベルだ。

 

 だけど、何がしんどいのか。

 

これを説明するのがなかなか困難で、何をするのもしんどい。

ただ生きているだけ。それすらめちゃくちゃしんどいからだ。

 

 

休む。

普通に考えれば、やっていてしんどいことをやめればいいと思うだろうし、それが正解なのだろうが、しんどいことをやめるということは、死ぬこととほぼ同義になる人は多い。自分もそうだ。

 

だけど死んではいけない。

なぜか。これについては当たり前と言いたいが、自分でも分からない。

ダメらしい。

 

 

そんなこと言われると、もう何も言えなくなってしまうし、そうなって離れてしまうのは嫌だ。

だから、もう少し軽い感じで書いてみようと思う。

 

普通の人(普通ってずっと書いてきたが、何が普通なのかは何となく感じる感じで大丈夫です)も休むし、頑張っている。

当たり前の話かもしれないが、それが普通だ。

 

これに関しては別にうつ病の人間だって違うわけじゃない。

 

したいことで出来ることはするし、出来ないことは出来ない。

頑張ればできそうなことはすることもあるし、しないこともある。

 

この辺りは個人の感覚でみんながやっていることだ。病気も何も関係がない。

 

でも、この出来ること、出来ないこと、のラインが変わってくる。

 

簡単に図解するとこんな感じ。

 

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今まで余裕でできていたことすら、出来ないこともあるし、余裕でできることもある。

ここの幅は個人差があると思うが、この図で伝えたいことは、そのまんまの部分はもちろんだが、細かく言うと、被っている部分があり、曖昧だという事。そして最後は幅がここまで小さくなった時、もうよく分からなくなるということだ。

 

今の自分は生きることすら余裕ではない。

息をするだけなら余裕と言っていいと思うが、ご飯を食べる、寝る、これは努力が必要だし、家族に助けられてできているだけで一人ではできていない。

 

そして、余裕でできること、頑張れば出来ること、凄く頑張ったとしても出来ないかもしれない程のこと、出来ないこと、この境目が難しいし、実際曖昧だ。

 

それをすべてしないということが良いわけではないと思うし、すべてすることが良いわけでもない。

これはうつ病であるかどうかは関係なく純粋にそうだが、さらにややこしくなっているため、さらに難しくなる。

 

それにうつ病になると、休めと言われる。調べても書いてある。休んだ方がいいとも思う。

それによってさらに休むことに対して繊細になっているから、もっと難しくなる。

 

こうやってどんどん休めなくなってしまう。

 

今まで余裕でできることは特に考えずにやってきた。

努力して、頑張って出来るかできないかの部分については、やりたいかどうかだったり、世間の風潮だったり、周りの意見だったりに影響されながら、何となく選択してきた。

 

余裕があれば出来そうになくてもやってみることもあるし、余裕がなければこの余裕でできない分野以外、手を出さないこともあった。

 

これらはあまり考えなくても普通にできるし、もし間違っていたとしても大した影響はない。少し無駄な時間を過ごすとか、無駄に疲れるとかはあるだろうが、大勢に影響はあまりない。

 

だけどうつ病の人にとっては、この選択は非常に大事に見えてくるような気がしている。

 

間違えれば、また何か月も何もできない可能性だってある。

やりすぎれば疲れて壊れる。やらなさ過ぎれば、前へ進んでる感や、良くなってる感も無く、どんどん精神的に追い込まれてしまう。

 

出来るか出来ないかも難しくなって分からない上に、

一つ一つの選択も難しい。

間違えてもいいのだろうが、追い込まれている分、より繊細になってくる。さらに難しくなって、分からなくなって、結果休めない。

 

普通の人からすれば、余裕でできること以外は休めばいいと思うのだろうが、この余裕でできることすら曖昧で、知らない間に無理をしていて、しんどくなる経験も何度もしてきた。

 

正直分からないのだ。

 

 

楽しいこと、好きなこと、やりたいことというグラフを左右に作るという方法もある。

そして、やりたいことの欄の事をする、ということもよく言われるが、それすらもグラフは同じくらいか、それ以上に短くなって、もう何が何だか分からない人も多いと思う。

個人差はあると思うが、難しいということを分かって欲しい。

 

そして、今休めなくて困っている人も、普通の人より間違いなく難しいのだから、難しいという意見は捨てる必要は全くないと思う。

それでいいと言ってしまうと、投げやりで、どうすることも出来ないみたいに聞こえてしまうが、一つ一つ、間違ったことも、しんどくなったことも、良くなるための一歩にはなると思うので、何とか最悪の選択はしないで欲しい。

 

わがままだけど、今の自分にはこういう事しか言えない。

 

 

うつ病は白か黒しかない、0か100で考えてしまうというのも、ここから来るとも思う部分があると思う。

 

なにせ、何もかもが難しい状態で、出来ることは数えるくらいしかない。

 

やらない、ちょっとやる、まあまあやる、めっちゃ頑張る、この間や細かい所もたくさんあって、

普通ならこの選択肢から何か選んで何%くらいやるのか決めるのだろうが、

うつ病になると、

やらない、ほんのちょっとやってみる

これくらいしかないことがある

 

ここまでくればやらないが0、ちょっとやってみるが100で、間は良くわからない。

だから仕方がないと思う。

この間で60%はどれくらいかと言われても、良く分からなくなってしまう。

 

 

何もかもが難しい状態で、精神的にも相当追い詰められている状態。

簡単に言えば

やったことのないスポーツで、大きな試合にでる。

台本全く覚えていない状態で初めての演劇の舞台にでる。

全く勉強していない状態で進級や合否がかかった試験を受ける。

 

こんな状態だ。

 

こんな経験はなかなかないだろうが、ど緊張の中、何も出来なかったりした経験は少しぐらいはある人もいるかもしれない。

そこから少し想像して、考えてみる。

 

これは無理だ出来ない。

考えなくても分かるかもしれないが、無理なのだ。

走るくらいなら、大きな声を出すくらいなら普段出来るかもしれないが、そんな場面に立ってしまえば、それすらも出来なくても何も不思議ではない。

何もできないまま突っ立って終わるのが普通と言えるのかもしれない。

 

人生にアップアップな状態

うつ病をいいかえればこう言う事も出来ると思う。

 

 

だから、休むことも、何かをすることも、するかどうかを判断することも、冷静に考えることも、何もかもが難しく、良く分からなくなる。

そういう病気だから。

 

 

何のアドバイスにもならないが、アップアップな状態だと、もし自認出来れば、休むという方向に一歩近づけると思う。

 

だけど、これも難しくて、こうやって偉そうに言っている自分もまだ出来ていない。

これがなかなか難しくて、簡単なことに思えるのだけど、まだ出来ない、。

 

本当に大変。

 

こうやって考えることすら間違えてるのかもしれないけど、何かの参考になれば幸いです。

 

では。

 

ゆっくり過ごせることを心よりお祈り申し上げます。

哲学者とうつ病

古代ヨーロッパでは上級階級?貴族?は労働できなかった。それは下々のすることだから。

だから学問を進めたんだろうけど、そこで哲学なんていうものが出てきたというのは非常に面白いことだと思う。

 

中身について触れると非常に長くなってしまうし、自分より詳しい方は山のようにいらっしゃると思うのでここでは触れないが、

労働ができなくて何故生きているのか毎日毎日考え続けていると言った所を切り出せばほとんど今の自分とおんなじなのだ。

 

彼らがうつ病であったかどうかなんて分からないし、多分違うんじゃ無いのかなとは思うが、やっていることはおんなじなのだ。

 

これは凄く面白いことの様な気がする。

彼らは偉人として今でも讃えられ続けているが、彼らは一体なにを残したのだろうか。また、人はなにもすることがないから哲学をするのか、はたまた、苦しい状況になったり理由は様々であろうが、内から溢れ出てくる考えがそうさせるのだろうか?

 

 

哲学に関してはうつ病になってから興味を持ち少し本を読んだり勉強したが、これくらいでは全くと言っていいほど理解したとは言えないと思う。

 

人はなぜ生きているのか。幸せとは何なのか、これだけ長い年月をかけて、多くの学者が研究を続けていて、未だにこれが答えだと言えるものにたどり着けていない学問が他にあるのだろうか。

 

ある人の出した答えのようなもの、考えというものは確かにある。本を読んでいてもそれは感じる。しかしながら、それが答えというよりも考えの一種としてみるような内容だと自分は感じる。

 

 

己がこれだと思えればそれに従って生きるのもまた一つの生き方だし、それはそれで幸せだと思う。

好きな言葉ではないが、バカの方が幸せに生きれると昔からよく言われたものだ。

その人が幸せなら、幸せなのだ。それでいいのだ。

 

真面目で正義感がが強い人間がうつ病になる。それ自体が本当かどうかも分からないが、よく言われる。もしそれが本当だとしたら、今存在する哲学の答えで人生をよりよくさせられるとは思えない。

 

今も哲学者はたくさんおり、さまざまな考えが存在している。古代から続く哲学に関しても未だに研究され続けている。

 

その考え一つ一つが大事だと自分は思うが、学者でない、学ぼうと思って学んでいるわけでない、死にたい人々、生きる意味を失った人々、幸せが消えた人々、彼ら彼女らの考えはどこにあるのだろうか。

 

 

やっていることは同じ、だが後者は学者でない。だから文献などが残っているわけではないが、ここまで当事者がかかわらない学問は非常に珍しいと思う。

 

かといってうつ病の人間が書くことが出来るのか、残すことが出来るのかと言われれば、それは難しい。

 

考えて答えを出す学問と、考えざるを得なくなっていつの間にか考えてしまっていること。この2つが違うか、はたまた行き着く先は同じなのか。非常に難しいが、すごく気になっている。

 

病気になる前は哲学というものの良さ、意味は分からなかった。今のままでいい人間にとってはそれが普通なのかもしれない。

でも今は興味がある。

そして、出来ることなら、いつか自分なりの考えをまとめてみたいとも思う。

 

哲学者でもなんでもない、ただの役立たずではあるが、面白そうだと思う。

この学問は多分ではあるし、ただの自分の感想ではあるが、

 

人間にとって役に立つ

 

これは間違いないと思う

間違った考えを言える環境

最近どころか、定期的に目にする差別発言であったり、ハラスメント問題、犯罪行為なのかモラルの無い言動なのか、法律には詳しくないのであまり強くは言えないが、諸々の事件、問題は非常に悲しくなる。

 

そういった行為をする人は嫌いだし、ダメだと思う。

擁護する気はさらさらないのだが、違和感を覚えることはある。

 

禁止にする意味も分かるし、ダメだという意味も分かる。理由等々も普通に考えればわかりそうなものであっても、少し調べれば詳しく載っていたりもする。

 

言い過ぎかもしれないが、そういう事をする人の気がしれないとも思う。

 

 

さっきも書いたが、別に擁護する気なんて無い。

 

だけど、これはダメです。

こういうだけで、全員がしなくなるとは思えない。

 

 

誰かがしていたから、わざわざ禁止にしているのであって、それが多くの人だからこうやってニュースになったりする。

それを今からやめましょうと言って、みんながやめるわけじゃない。

 

 

子供と大人を同じ土俵に上げて話すのもおかしいが、学校で先生がどれだけ説明しても聞いてない人は聞いてないし、理解しない人は理解しない。

ダメだといくら言ってもやる子はいる。いくら説明しても分からない子は少なくない。

 

大人なんだから聞きなさいと言えばそれまでだけど、被害を受けた側からしたらたまったものじゃない。そういう子がいるから仕方ないと言われているようなものだ。

 

 

言えば、言ったという証拠が出来て、法律を作れば作ったという証拠が出来る。それで責任はなくなってしまうのかもしれないが、そんな責任逃れみたいなことで、被害者は被害を受け続ける世の中はやっぱりおかしいと思う。

 

被疑者を捕まえればいいという問題でも無くて、捕まったころには被害者はすでにいるのだ。

 

子供の場合時間をかけて親なり先生が教えるが、大人にはいない。

それに、きちんと説明を理解しようとする人すら少ないようにも思える。

 

そもそもが間違っていると分かってやっているわけじゃないのだ。

これが一番大きい理由だと自分は思う。

 

自分の考えは言ってはダメ。やってはダメ。そういう社会だからやめる。

こういった表面だけ塗り替えて生きている大人がどれだけ多いか。

 

最近は病気で人とあまり話せてないので分からないが、なる前にはすごく思った。

 

 

例えば、こういう発言があって差別だと糾弾されたというニュースがあったとする。

そのニュースを見て、多くの人がこういう事を言うのはやめようと思うだろう。

 

その中になぜダメなのか。こういう事も傷つく人がいるかもしれないなと、自分の行動を改めて細かく修正する人間がどれだけいるのだろうか。

根本から考える人、改める人がどれだけいるのだろうか。

 

傷つく人が一人でもいればしてはいけない、その行動は間違っている、ダメだ。という所まで言う気はないが、法律などで決まったことに対してだけ、これは言わないようにしようなどと表面だけ注意する人がどれだけ多いか。

 

そんな暇はないと言われてしまうと涙が出てしまうが、根本からしっかり考える人の少なさには閉口してしまった。

 

 

だけどよくよく考えてみれば、もしこれを根本から考えようとして、なぜダメなのか理解しようとした時、もし疑問点などがあった時、誰に聞けばいいんだろう。

 

元々、それはいけないなと思えればいいが、ダメな理由が曖昧になってしまった人はどうすればいいのだろうか。

 

誰にも聞けないのではないだろうか。

それ以上の理解もすべて自力で何とかするしかないのだろうか。

 

ネットで聞いて炎上するのは嫌だし、友達や職場で聞いて、あいつは差別主義者だ、モラルの無いやつだと思われるのは嫌だ。

 

結局分からなくて、表面だけでも塗り替えるしかなくなっている人は少なからずいると思う。

 

数学や物理など答えが明確に出て来るようなものであった場合、質問するのは簡単なのかもしれないが、こういった人の問題となってくると難しい。明確に数値などでドンと答えを出すことは出来ないのだ。

もっと理解しようと深く聞けば聞くほど勘違いされる可能性もあるし、思ってもいないことを聞いて、そういう考えがあると思われるのも嫌だと思う。

 

自分が特にそういった面で分からない、困ったことがあるわけではないが、ただ禁止とするのではなく、最初は納得したいと思っている人だけでも、きっちりと納得できる環境をもっと作っていかないと、これからもこういった問題は続いてしまう気がしてならない。

 

こういったことも非常に動きにくい。

でもそうやって逃げるしかなくて、表面を塗り替えるしかない社会では解決するような気がまるでしないと思ってしまう。

 

そう思ったなら作れよと言われてしまうと何も言い返せないが、違和感を感じ、書いてしまった。