20歳から11年、いまだにうつ病に苦しむ人間の頭の中

20歳までは順風満々だった男がうつ病になり、すべてが終わったと感じてから、日常生活をぎりぎり生きられるようにまでは戻った人間の現在

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自分が認識している自分と自分そのものは違う

頭の中で、自分が考えている自分というもの、と、自分自身そのもの、これは違うと思う。

 

自分自分と自分ばっかり言っていて意味が分からないかもしれないが、意味が分かりにくいことも、これを勘違いさせている一因である気もする。

自分。これは自分に一番近い存在で、自分が一番理解しているものではある。しかし、自分というものは難しすぎて、理解しきることはできない。これは他人についても同じで人を理解するということは、どれだけ近い存在であったとしても出来るものではないと思う。

分かりにくすぎると思うので例え話をしてみる。

例えば数学で、三角関数はもうできる、と勉強して、なったとする。しかし、もうわからないことはないと思ったとしても、いざテストとなると間違うこともある。それから何回も繰り返して、もう間違わなくなったとしよう。それでもその人は三角関数のことを理解しきったとは言えない。数学者に言わせればまだまだ分かっていない点があるからだ。なら、世界で一番三角関数を理解している学者なら理解しきっているのか?そんなことはない。その考えも、もしかしたら数千年後全く間違った理論だと言われる可能性だってあるのだ。どれだけ考えて研究して理解したとしても、それが正しいのかは誰にも分からないし、どこまで行っても、今の所正しいと思われるというレベルを超えることはできない。それにどんな証明も、この定義の上でというものが付き、それもまた絶対に正しいなんて言えない。

なんでもそうだ。どれだけ理解しようが、それ自体を理解することはできない。違う可能性が絶対にある。それが人間という複雑な生物、その生物の複雑な考えとなれば理解するなんてことは出来そうもない。いくら自分自身のことだと思っても、脳の処理が絶対に追いつけないし、見えていない部分も無限に存在している。

 

別にこの考えは難しくない。みんなが出来ていると思われるかもしれないが、自分という存在は近すぎて、分かっている部分が多すぎる。わざわざ考えなくてもいいことも多い。そのせいでいつの間にか見なくなっていることも多いのも事実だと思う。見なくたって一番知っているのは自分のことだし、わざわざ見る必要はないと言えなくもない。

 

自分は自分のことが分かっていない。わざわざ意識するようなことではないのかもしれないが、この考えがどこかにはないと大きな勘違いを生み出してしまう。自分が今やりたいこと、自分の今の状態、自分が何をしているか、こういったことも分かっていない可能性があるのだ。そのために、自分の夢や希望を見失ったり、しんどいということに気づかずに潰れてしまったり、何をしたらいいのか見失う。一度見失ってから気が付くのもいいのかもしれないが、見失ったときの怖さは経験者としては体験してほしくない。

 

気が付かないうちに自分い嘘をついて、自分が苦しんでいるのにも気が付かなくて、でもそれの原因が全然分からない。分からないまま苦しんでいる人は多いと思う。

今の情報であふれかえっている社会では仕方が無いことかもしれないとは思うし、もしかしたら、勘違いしたまま何かに騙されて生きたほうが100年という短い人生では幸せなのかもしれない。分からないまま生活する、分からないまま前に進んだほうが幸せかもしれない。

 

でも、どこかで自分と向き合って、自分に気づいてあげる、自分を少しでも分かってあげることが自分にとっての正しい生き方じゃないんだろうか?

そうすることで見えなくなる部分もあると思うし、変に悩んでしんどくなるかもしれない。幸せを逃す可能性だってあるし、周りから見たら無駄なことをしているように見えると思う。

 

幸せとは何なのか、正しい生き方とは何なのか、そんなことを言える立場でないことは分かるし、人の生き方に入り込んでいい訳ではないことも分かっているつもりだ。

ただ、一度自分を見失ったものとして、同じ苦しみを味わってほしくないという気持ちはある。自分というものは難しいし、向き合ったところで見えるわけではない。しかし、もう少し見てあげて欲しいし、考えてみて欲しい。

一生縁の切れない一番近くて一番大切な友達だと思うから