28歳うつ病大学生の頭の中

20歳までは順風満々だった男がうつ病になり、すべてが終わった今思うこと

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テストを受けて思い出した負け犬的結果主義理論

自分はどういう人間で、どんなことがしたいのか。

うつ病になって8年。そういった意味の無いことを考える時間が多い。

何かしたいことは無いのか。無いのなら病気になるまでは何を目標に、軸に生きていたのか。

 

振り返ってみると、自分は別に何もしたくなくて、何もせずに生きてきたわけじゃない。むしろ色々やりすぎて忙しかったくらいだった。そこそこしっかりした部活に入り、友達も多く、よく遊んでいた。勉強も自慢じゃないが、医学部に入れたくらい頑張った。

 

でも、どれを見ても自分がしたかったことは何一つなかったのかもしれない。

 

遊んだのも、周りが喜ぶ姿を見るのが嬉しくて、もっと周りが笑って欲しかったからだ。(これは自分のしたいことともいえるかもしれないが、、)

部活も誘われたから入った。別に勝ちたいとかベスト○○に入りたいとかはなく、別にサボっていたわけでもないが、特に苦に感じることも、やめる理由も無かったからやっていただけと言われればそうなる。勉強だけは凄く頑張ったと言えると思うが、親を喜ばせたい、凄いと思われたいからやっていた。

医者になりたい理由。先生や面接などでたいそうなことを言っていたと思うが、ただそれだけだった。自分を納得させるために勝手に作り上げていただけなのかもしれない。

 

 

ここまでは結果論主義と結びつかないような気がすると思われる方も多いと思うが、こういった背景が、自分を結果主義に傾けた理由なんじゃないかと最近思うことが多い。

 

主体が自分じゃない。

自分がやりたい、成し遂げたい、得たい。そういったものでないから、その途中経過なんてものはどうでもよくなってしまっていた。

心の底からこれがしたい!というものが無かった。無かったというより、自分で消してしまっていたのかもしれない。

結果何を得たのか。それが周りにどういう影響を及ぼしたのか。それが自分にとって一番大事だった。

 

そうなってくると頑張るということは意味をなさない。結果何が出来たのか、何を得たのか、それにしか興味がなかった。

凄く頑張っている人を見て応援したくなったり、好感を受けることは確かにある。しかし、それを自分に当てはめることは出来なかった。

 

もう少しだけ、自分のことを振り返ってみる。

自分は器用貧乏というか、なんでも浅く広くやる所がある。何かにのめりこむことも無ければ、嫌ってしないこともない。しんどい練習や勉強にも楽しさを見出せたし、凄く楽しいと思ったことに突っ走ることも無かった。やっぱりその楽しさの中にはどこか周りの人というのがあった。

 

自分がすること。その中に楽しさがなくて、何をしたのか、周りがそれに対しどういう感情を得ているのかが重要だった。

なぜこうなったのかは難しく、断定はできないが、そういう人生を歩んでいた。

 

 

ではこうなった場合。結果主義になった場合。どうなるのか、自分の一例から考えたい。

 

こうなった場合、自分のことをどうしても客観的に見てしまう。

もう一人の凄く嫌いな自分Bを作ってその人を見ているかのように自分を見てしまう。

(客観的に見るということは厳密には出来ないと思うが、自分というものをどんどん見失ってしまうというような感じで思って頂けると幸いです。)

 

確かに勉強でもテストでいい点数を取れないと周りは気づかないし、運動でも試合で勝たないと強いかどうかは分からない。

いくら頑張っていたって、時間をかけたって、結果を残さないと分からない。

そういった考えが自分の中にあった。

結果というのは凄くわかりやすい指標だった。

 

確かに何かに向けて頑張れば、その求めていた結果が得られたとしても得られなかったとしても何か残るものがあるはずだ。それはドラマや映画などを見ても分かるし、実際に周りを見ていても感じることが多い。

 

でもそういったものは自分にはなかった。

別にサボっていたわけではないと思う。部活に関しては大した戦績も残っていないので何とも言えないが、勉強は確かに頑張ったと言ってもばちは当たらないと思う。

結果関係なく、頑張ったことは頑張ったって言っていいはずだけど、ここでも結果ら自分を見てしまっている。

 

しんどかったか、無理をしていたのかと言われれば、分らないが、合格したと分かった時、入学した時、嬉しさとか何かこみあげてくるものはほとんど無かった。無かったと言えば噓になるのだろうが、何かほっとしたというような気持ちが強かったことは覚えている。

 

大学へ行けるということは確かに嬉しかった。だけどこれを経験して一皮むけた、成長したという感じは全くなかった。ただ合格しただけだった。

 

自分の人生において、これは頑張ったと言えるようなものはテストくらいだった。別にずっと頑張っていたわけではない、高校二年生の時のただ一年だけのことだけど、これしかないかもしれない。

 

だから、頑張って結果が残ったということは嬉しいはずなのに、嬉しさはあまり感じなかった。普通に考えればおかしい話だが、実際そうだった。

 

元々、結果主義ということもあり、何かを残さない努力というものを認めていなかったのかもしれないとは思う。他人に対してそういった思いを抱いたことはないので見えていなかったが、そういった考えは自分の中にある。

 

そうやって結果が残らないかもしれないという不安から、努力するということから逃げ、極めるという所から逃げ、出来るだけ「普通」に過ごそうとしていたのかもしれない。

簡単に言えば負け犬だ。負け犬根性なのに頑張ってしまったから、結果が出ないことが凄く怖かったのだと思う。だからほっとした。

 

頑張ってしまったから。

 

 

結果主義が良いのか、過程を大事にすることが良いのか、そういった話になると難しいが、結果主義に偏ってしまうと、なかなか努力をするという過程に対して怖さが出てきてしまうような気がする。

 

どうせ出来ないからしない。これぐらいならそこまでの影響は無いのかもしれないが、やったからには結果を残さないといけない、となってくると話は変わってくる。

 

プレッシャーが大きすぎて、どうしても動けなくなるし、動いた後もう止められなくなってしまう。

 

どれだけ頑張っても、何をどれだけ何時間やったとしても合格しなければその大学へは行けない。

どれだけ勉強しても、頭が良くなったとしてもテストでいい点を取れないと意味がない。

確かにそうなんだけど、そうやって追い込むことで合格することが出来たんだけど、その考えが強すぎたのかもしれない。

 

結果何を得たのかで評価されることは多いし、頑張るということは極論を言えば意味はないと言えるのかもしれないが、意味はなかったのだとしても、そこに意味を無理やりにでも作る意味はあるんじゃないかなと、こうやって振り返ってみると思う。

 

ただの自己評価になったしまうのかもしれないが、それでいい。自分だけであったとしても、その努力を評価してあげないといけない気がする。

 

 

結果主義を否定するつもりはない。現にこの考え方で20までは最高の人生を過ごさせていただいた。

 

だけどもう少し自分を認めてあげたらいいのになと感じた。

 

今は何も出来ていないから、こういった考えが生まれてきているのかもしれないが、もし何かを頑張れる時が来たとしても、この考え方は大事にしていきたいと思う。 

 

ただ認められたい人生だった。

多分今もそうだ。

だからこうやって今ブログやツイッターをやっているのかもしれない。