28歳うつ病大学生の頭の中

20歳までは順風満々だった男がうつ病になり、すべてが終わった今思うこと

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グレられる社会-反抗期について

自分には反抗期は無かった。

考えたことも無かったが、17,8の頃に母と何となく話しているときに、そういえば反抗期なかったよねって言われて気が付いた。

 

その時はあまり意識することも無く、そういえばそうだなーと思ったくらいだったが、うつ病になってから数年たって、考えることがあった。

 

何かの本を読んでいた時に、反抗期について書かれていたからだ。

反抗期に自分を出す、自分の意見を言うことが身に着く。アイデンティティが確立するなどといった内容だったが、こういった理論は理論としては分かっていたつもりだった。

授業で聞いたから。

 

だけど、それを自分に当てはめて、反抗期がなかったこと、現在うつ病であることを照らし合わせた時、初めて反抗期の大事さに気がついたような気がした。

 

反抗期が無かった。

別に反抗したことがないわけではない。だけどそういった時期はなかった。反抗した回数も普通と比べて極端に少なかったと思う。年に一度あるかないかくらいで、意地になることに関して言えば無かったかもしれない。

 

 

なぜ無かったのか、自分なりに振り返ってみると、大きく分ければ2つの理由があると思う。

 

一つ目は、自分は人のために生きている。周りのために生きている。というのが一つの大きな軸としてあったことだと思う。

その周りという所に親もいて、反抗するということはその生き方に逆らうということだったからだ。

 

自分のしたいことが無かった。当時はそんな意識はなかったが、誰かが笑っていることが大好きだった。自発的にこれがしたかったというのはほとんどなかった。

誰かといて、誰かと話して、誰かと何かすることが楽しかった。

内容はホントにどんなことでも好きで、嫌いな遊びや、嫌いな人もほとんど無かった。

だから、誰かのために生きていた。

それで十二分に楽しかった。

 

 

もう一つは、理屈っぽいというか、合理的にというか、冷たい、ドライに考える癖がどこかにあったからだと思う。

単純に考えて、親とはこれからも長い間一緒にいることが多いし、仲は良いほうがいい。いい子だと思われていた方が今後良いと、他人事のように生きていたのかもしれない。

なら反抗しないほうがいい。上手くやって、出来るだけ衝突せずにやりたいことをやるのが一番いいからだ。

そんなことは関係なく、気持ちが出ていく、感情を出すというのが普通かもしれないが、その点ませていたというか、ひねくれていた部分は確かにあった。

 

じゃあなぜ、こんなひねくれた人間になったのか。そういう人間になったのか。

ここまで掘り下げて考えると、どうやっても一つの記事でまとまるような量ではなくなってしまうが、数点だけでも掘り下げて書きたいと思う。

 

 

良い人になりたかった。というより、良い人を周りが、社会が求めていたような気が自分にはしていた。

勉強する子はいい子、大人のいう事をちゃんと聞く子はいい子、ダメと言われたことはしない子はいい子。そう聞いて育った人は多いと思うが、大人や社会がこう何度も言うのには理由があって、何度言っても聞かない、しない子がたくさんいるからだ。

 

だけど、自分は聞いていた。聞いてちゃんとやっているが、周りで言われているのを何度も聞いて完全に体に染みついてしまった。

大人が悪いというつもりはないが、子供は言うことを聞かないもの、言わなきゃわからないものと、一緒くたにして言い続けるのは危険性があるとは思う。

 

 

自分の意見を強引に出すというのも良いという風潮はあまりなかった。

衝突が生まれやすいし、喧嘩になることが多いなどの理由があったのだろう。みんなのことを思いやって上手くやることを求められていた。

 

みんなで仲良く。

疑り深い、何も信じないような自分でも、それが当たり前と思ってしまうくらい自分の体に染み込んでいた。

 

 

みんなでやろうって言っているのに、一人だけ嫌だ、こうしたいって言うのはあまりよくないのかもしれないが、そうやって周りにどんどん合わせ、合わせる技術ばっかり成長してしまうと、自分の意見を無理にでも言うということはダメなことのように感じてしまう。

そして、いつの間にか、自分の意見をいう事が場を荒らすような感じがしてきて、無難な人間が生まれる。ただ合わすだけの無気力な感じで済むなら自分はあまり問題視はしないが、

その状態でもまだ上を目指す気持ちがあり、取りまとめるプロみたいになろうと、うまくやることをどんどん上達させてしまうと問題が出て来る。

 

確かに自分はまとめるのは上手くなった。どんな状況でも和ませたり、話をうまく進めるのもうまくなったと思う。コミュニケーション能力はついた。

だけど、肝心の自分の意思、考えというものを失ってしまった。

 

こうなったとしても

子供の頃はまだいい、問題が少ないし、単純なことが多い。だけど成長するにつれ、問題が複雑化し、大人でもどうしようもなくて漂っているものまで存在する。

それを何とか上手くまとめようとなんてするのは一人の力では無理だし、大人数で何とかしようとしていてもびくともしない社会が存在している。

 

それがその子を狂わせてしまう。

おかしい。完全におかしいのだ。だけど、もうおかしすぎて何をしようともどうにもならない。しかもずっと教えられてきた大人が、背中を追ってきた大人が諦めてる。

 

一人ではどうにもできないのに、何の権限も無い一人の子供なのに、何とかしようと、上手くやろうと大人と戦ったこともあった。

だけど、周りは仕方がないとあきらめて、おかしいけど仕方がないと、言うとおりに従っていた。

 

子供ながらにこの社会の現状には悲しくなったのを覚えている。

 

 

もうどうしようもないから、無視してうまくやってけばいい。そう自分も思えた。だけどどこか引っかかって、出来るだけのことはしたいような気持は捨てきることは出来なかったのかもしれない。

 

絶対従っていた方が楽だし、そっちの方がうまくやれる。変に戦うくらいなら、従いつつ少しずつ変えていけばいい。それは間違いない。そっちの方が残せることも多い。

 

だけど、自分には根本からおかしく見えて、自分のやってきた良いとされていることがすべて間違っていたように見えて怖かったんだと思う。

そして、何の力も無いのに何とかしようとしてしまった。

 

戦いながら、自分の周りにとって、その団体にとって一番いい方法を考え続けて、何度も話をした。行動も起こした。結果何も変えられなかったと言われるくらいのことしかできないのは分かっていたが、出来ることはしたかった。

それがその社会にとって一番いいと思っていたからだ。

 

自分から進んで険しい道を進んでしまった。

 

 

もし、その時グレられれば、怒られて済んだかもしれない。

だけどグレるのはよくないことだと思っていたから、グレることは出来なかった。その選択肢すら、頭の中にもなかったかもしれない。

 

そうやって潤滑油として生きることが自分にとって最高の人間だったから、理想だったから進んだだけだ。

誰かを責めるつもりも、悪いと思うつもりも一切ない。

 

だけど、同じように進んで苦労だけをする人をみていると、どうしてもいたたまれない気持ちがしてしまう。

 

 

確かに、言うことをちゃんと聞いて、頑張っている子はえらい。

そういう人で社会が埋まれば凄く幸せな良い社会になるかもしれない。

 

だけど、社会という歯車の中の大多数はただ従う人間で、それを数名が歯車を作って回させている。

きついことも、おかしいこともあるが、そんなことは見ずに、ただ歯車を回すだけで精一杯なのだ。

 

だけど、その歯車から外れていく人は必ず出て来るし、その歯車自体に疑問を持つものも出て来るだろう。

それが自分にはきつかった。何とかしようと思った。

まだ社会人に一度もなれていない若造が勘違いをした。

上手く回すために潤滑油になったり、修理したり、どうしても無理だと思うことについては作っている側と話した。

だけど、何かを変えるなんて一人でできるわけがなかった。

 

外れた人は見捨てる。適当な言葉でだまして留まらせる。怒って言う事を聞かす。

こんな時代になって未だにこんな原始的な方法しかない事に愕然とした。

 

だけど、みんな辛い思いをしてやってきたのだから仕方がなかったとも思う。

今更変えるなら、新しく何かを作るくらいしか方法は無いのかもしれない。

 

今もこの社会の中で様々な歯車が回っている。

 

大きいのから小さいものまで、人間の文明を支え豊かな暮らしができるように。

だけど忘れて欲しくない。

無理やり歯車に乗せられた人間もいれば、どうしても乗れなくて苦しんでいる人間もいること。

そして何より忘れて欲しくないのは、その歯車が回っているのは歯車を作った人でも歯車に乗って回っている人でもなく、何人かのただのいい人によって回っていること。

 

矛盾だらけの歯車だから、普通に考えれば回らない。だけど回してくれる人がいる。

それを忘れて欲しくない。

 

話がだいぶ脱線してしまったが、子供をぐれさせないという事は、この歯車にうまく乗せることだと思う。

従順に従い歯車を回すこと、また、より適性の高いものにはうまく回すための潤滑油となること。

社会から離れさせず、こうやって育てること、社会に引き留めることが悪いとまでは言わないが、引き留めたからには、引き留めるよう教育をしたからには、責任を取る必要があるとも思う。

 

彼らをそこに引き留めた、外れることを防いだのは果たしていいことなのか。

このことに関しては、コメントしにくい部分はあるが、社会全体としては良いのかもしれないが、自分はそうは思いたくない。

 

誰かの犠牲の上でしか存在できない社会はどうなんだろうか。

 

社会と人間と、どちらが大事なのだろうか。

 

 今の教育、ぐれさせないほうが生産性は上がるだろうし、犯罪も減る。良い街に見える。社会にとっては良いことづくしなのかもしれない。

だけど、犠牲になっている人間はいる。

 

犠牲となる人間にさえならなければいい社会だ。

だけどここに目をつむり続けることは自分には出来ない。

 

教育を社会をより良くするためにやるのは仕方がない。そっちの方が社会にとっていいのだから利を生むし、衝突も減らせる。上手く回せる。間違えているとは言わない。

 

だけど、そこに関して目を背け無いようにして欲しい。

 

わざわざ言わなければ見えない存在だけど、絶対にいる。

上手く回すための人間。

彼らにもっと目を向けて欲しい。

 

それが出来ないのにグレるなと、社会から外れるのはおかしいという権利は社会にはないと思う。

ぐれることが良いとまでは言わないが、ぐれてもいいじゃないかというくらいの余裕がある社会になるといいなと思う。

 

逃げ道も無く険しい道を進むのはしんどいから。

気軽に休める社会になるといいな。

 

そして、そうできる人間になるためにも反抗期という時期はあったほうがいい。

本来の反抗期の意味とはずれるかもしれないが、反抗して意見を通して、そうやって見えてくるものは絶対にある。

 

反抗期の無い子が増えているという話もあるし、昔と比べて悪いやつだなーと感じる子供も減った。

それが良いのかもしれないが、自分としてはどこかでそういう時期が来ないように育てるのは間違っている気がする。

 

これからの社会もっとしんどい状況が増えてくると予想できる。

そこで押しつぶされないためにも、おかしくならないためにも、そういった考えがどこかにあって欲しいと強く思う。