図々しくなんて生きられない
SDGsという言葉をよく聞く。
あまりメディアに触れることが出来ない自分ですらこれだけ聞くのだから、社会ではもう当たり前のように存在している言葉なのかもしれない。
様々な企業が取り組んでいる。
とてもいい事なのではないのかなとは思う。
項目の多い目標なので、何かが埋もれてしまうようなことがありそうだな、という不安は確かにあるが、良いことだと思っている。
こういったことは
この言葉から始まったわけではなくて、今までもあったが、改めて未来のために変わっていきましょうという宣言のようなものと、自分は認識しているが、こういった国や企業、強いものが先導して何かを守るという事に関して、昔から違和感を感じることがある。
間違っている、変だと言いたいわけではない。ニュアンスの問題で、人々の中にのあたり前が生まれることを怖れているという事だ。
強いものが、余裕あるものが守る。
当たり前かもしれないし、良いことかもしれない。
だけど、その前提に、弱くても普通に生きられると言う事がある必要があると思う。
何か困ったことがあれば、生きていけなくなれば、強い人に頼んでどうにかしてもらう。
こういう構図が当たり前に存在してしまうと、弱い者は助けがないと「普通」に生きていけなくなり、主従関係というか、上下関係がどうしても生まれてしまう。
助けられる側が何生意気言っているんだと、助けられてありがたいと思え。
ごもっともな話かもしれない。
感謝の気持ちを忘れるのはいけないことのようにも思える。
だけど、実際に自分が「弱い者」になってしまった時、自分は弱いという事を受け入れられるだろうか。強いものに助けてくれとお願いすることが出来るだろうか。
世の中の障害というのには様々な種類があって、個人差もある。全員が全員どうだ。という事は言えないが、実際に弱い者になった時、自分のことを弱い者の自分と感じ、価値をどんどん見いだせなくなってしまう人は少なくない。
強い人の足を引っ張るくらいなら、弱い自分は我慢してよう。細々と生きられればそれでいい。お上の迷惑をかけてまで生きようとは思わない。
実際に統計を取ったわけではないが、そう考えている人は多い。
助ける、助けられるの構造は一見良いようにも思えるが、ここに価値の上下関係が生まれていないだろうか。
もし、弱い者が、「俺は弱い者だ。助けろ」と図々しく生きられるのであれば、この構図の社会でいいのかもしれないが、そのように生きることは難しいし、そう考えるのが正解とは言いにくい。
私たちはこのようなものを助けます、守ります。
凄くいい事だろう。だから凄くいい者のように映り、どうしても価値が上がる。
だけど、助けるという事で、助けられるという事で、価値の上下が出来てしまうのであれば、それはおかしくなってしまう。
困ったものがいれば強いものが助ける。弱くなってしまえば、困れば、助けを求める。
このような社会は、決して持続可能な社会ではない。
どのような考えがあってCМを打ち出しているのかは分からないが、こういった、あたり前の湾曲が起こってしまわないかが少し心配でもある。
誰かを助ける。守る。これはいい事という概念は大事だとは思う。
だけど、助けた側が良い者となる構図は、どうしても助けられる側を下に、または低く見ることにつながりかねない。
前に相談するハードルについての記事も書いたが、相談して、助けられてやっと「普通」の生活が出来るという状況は、決して好ましい状況では無い。
本来はそうでは無く、助けたから、何かしてあげたから、守られるから何とかなるではなく、当たり前として、普通に生きていける社会が持続可能な社会であると自分は思う。
そんなことはわざわざ言わなくてもいい事なのかもしれないが、こうやって多くの企業が打ち出している状況を見ると、どうしても違和感を感じてしまった。
言わないと分からない。わざわざ予算をかけてするんだから知ってもらわないと損だ。という気持ちもわかるが、我々は弱い者を守りますと、宣言することは助けられる側にとってデメリットであることも多いような気がする。
また、助ける事、守ることが良いことであることに関しては間違いだというつもりはないが、それを広報として、好感度を上げるために使っているのであれば、それは違う気もしてしまう。
図々しく生きている人も確かにいる。それによって、見られ方、見方が変わってしまうこともあるだろうし、普通の位置を変えることで、図々しい人間をより有頂天にさせてしまうのかもしれないが、こういった今ある形が正しいとはどうも自分には思えない。
弱い者を助けて当たり前。
そういうものも多いが、相手が弱いかどうかはどうやって判断するのだろうか。
そういったものの見方をしなくては弱い者が生きていけない社会に差別という概念が無くなることはあり得るのだろうか。
弱い者を助け、優越感に浸る、価値を上げるという事に喜びを感じているものはどれくらいいるのだろうか。
また、どこまではみんなが出来る必要があるのだろうか。
強いものによる助けられた社会では、助けられる人の選別がどうしても起こる。足が使えない人のためのスロープやエレベータの設備が整うが、人混みがダメな人の電車に乗ることが出来ない問題を解決しようとしている所はあるだろうか。
そのためにスペースを使うと、「普通」の人が乗れない、「普通」の人が必要以上にお金を払う必要が出て来る。
それは傲慢なのだろうか。
どこまでが必要で、どこからが甘えなのか。
少なくともうつ病の人間の一部(大部分かもしれないが)はそれを傲慢だと思い、甘えてていてはダメだと言い、我慢する。
本当は、図々しく生きていいのかもしれない。そんなこと図々しくもなく当たり前のことなのかもしれない。
だけど実際は助けを求めていいのかもしれないが、そうすることなく、一駅ずつ降りて時間をかけたり、お金を多く出してタクシーに乗ったり、移動をあきらめたり、さまざまな我慢をして生きている。
そうすることによって、本来の普通の生活が出来ていないのかもしれないが、本人にはそれが分からない。
自分が悪いのだから、他の人はやっていけるのだから、自分だけ特別に何かしてもらうという事が申し訳なくてならない。
また、見た目では分からない病気だという事が拍車をかける。
どんどんそれが普通になって、何も出来なくなる。普通には生きていけない。
そうなれば、自己肯定感も無くなるし、社会への復帰の道は閉ざされてしまう。その人自身の脳が病気であることだけではなく、その人をより孤立させている社会の構造というものが今の社会のあたり前になっている。
言われないと助けない社会。助けて「あげる」社会。弱い者が生きていくためには助けてもらうことが必要になってしまう社会。これらの表に出てこない社会の問題点を考えている人間はどれくらいいるのだろう。
差別の無い社会や、誰もが生きられる社会というものにはまだまだ遠いような気がする。