うつ病の人がうつ病の人として普通に生きられる社会
「うつ病は甘えではない」
自分がうつ病だから意識してしまっているのかもしれないが、なる前から何度も耳にしてきた言葉だ。
これは確かにそうであって、とても大事なことかもしれない。
悪い言葉とは言わないが、「で?」「だから?」と思うことがある。
この記事は、前に書いた、うつ病の人を助けることは出来ないという記事の続きのような内容になる。
この記事にあるように、うつ病の人を助ける方法は今のところ無いと言って良いと思う。
凄く悲しく、また、助けてくれようとする人を傷つける嫌な言葉だし、自分でも言いたくはない。
だけど、これはうつ病の側から言わないと、他の人から言う事は出来ない言葉だとも思う。自分を正当化したい訳では無いが、だから書きたいとも思う。
嫌な気持ちになる方もいらっしゃるとは思う。本当に申し訳ない。
だけど、「うつ病は甘えではない」。この言葉をちゃんと理解した人がいたとして、何が出来るのだろうか。
ここまで甘えじゃないと連呼されているにもかかわらず、その続きが無いのだ。
どうしてもそう思いたくない人もいるだろうし、なんと言ったって甘えと思う人もいると思う。
自分はその方を批判するつもりはない。
甘えだと思っている訳では無いが、そう考えていただいても仕方がないと思っている部分もある。
だけど、多くの人は甘えではないことは知っている気がする。
実際なった訳でも、身近にうつ病の人っがいて、見てきている訳でもなく、何となく思っている人が多いかもしれないが、それでも甘えじゃないと思っていただいている方が多くいる事は凄く喜ばしいことだ。
だけど、その続きが無い。
「大丈夫?」と声をかけたり、「ゆっくり、休んで」と何となく良いとされていることを言うことは出来る。
だけど、言わなくても分かっているとは思うが、それらはうつ病の人本人が一番分かっている事なのだ。
24時間毎日毎秒うつ病と向き合うしかなく、毎日苦しんでいる人なのだ。何か月、何年、何十年も。
テンプレートのようなことを言うなとは言わない。だけど、その言葉、その行動によって良くなるとは思えない。
前に、うつ病の本人の方が甘えだと感じてしまうことがあるという事も書いたが、何故出来ないのか、どうなっているのかが、分からなすぎる病気なので、無理もないとは思う。
それに、下手すれば死んでしまうともあれば、慎重になるのは当然とも言える。
分からない
これがこの病気の一番の問題かもしれない。
出来ないという事実は確かにある。どうやったって出来ないし、多少無理をすることで出来たとしても、尋常じゃないくらい反動が来る。
そういった事実は確かにあるのだが、良く分からないのだ。
だから、治ると信じるしかない。
だって、治らなかったら可哀そうだから。ゆっくり休めば治るって信じたい。
甘えじゃない。その人はしんどい、という事を理解出来れば出来るほど、どうすることも出来ないという事実には目を向けることが出来ない。
例えば、神経が死んでしまって目が見えない、腕が動かせないみたいに、分かりやすく証明できれば、また違う結果にもなると思う。うつ病は分からないから、どうしたって希望を持たずにはいられない。
さっき分からないと書いたのに、どうすることも出来ないと言い切る事は矛盾しているようにも感じるが、これは事実なのだと感じる。
自分でも信じたくない。この考え方が間違っていると思いたいが、考えれば考えるほどこう思えてしまう。
それに、本当にたくさんの方々に助けようと奮起していただいている。その方たちにも非常に言いにくい事ではある。
だけど、もう一度言う。どうすることも出来ないのは事実なのだ。
話を聞く、何かを手伝う、出来る事はあるにはある。しかしそれらはすべて枝葉の部分であり、根本は解決していない。
他の障害を持った方々にも、そういった意味では枝葉の部分しか支援することが出来ていないのも、また事実としてあると思う。
だが、精神障害というものはどうしても分かりにくい。
だからどうしたって、支援することが難しくなるし、逆効果等になる可能性も高くなる。
本当に治らないのか
確かに、治らないという事を証明しろと言われれば難しい。
なんせ分からないことだらけの病気だ。
実際に回復して社会に戻られた方もいる。
分からないのであれば、希望を持とうと思われる方は多いと思う。
だから、これだけの方々が何とかしてあげようと、色々なことをしてくれるのだと思う。
だけど、この「希望」がうつ病の人を苦しめているのではないかと思うことがある。
希望が残っていて、今現在、恐ろしいくらい辛いのだから、皆、この希望にしがみついてしまう。
もし、この希望が無ければ、死んだ方がましとしか思えないくらい辛いのだから、希望があることを良いと思う事も出来るが、この希望はただの延命のための希望なのではないかと思ってしまうことがある。
いつか治る。いつか社会に戻れる。いつか普通に生活できる。
そう思うことで、何とか生きていこうと思える。この苦しみ、辛さは死ぬまで続きますが頑張ってくださいと言われれば、折れてしまう人は多い。
だから、この希望を悪いとは言わない。
むしろ、希望を与えることで、たった一つでも助かる命があるのだとしたら、こう言うべきだし、たとえ間違っていたとしても、意図とは違う形だったとしても、希望を与えなければならないとも思う。
だけど、これが本当に正しいのだろうか。治ると信じて何年、何十年も苦しみ続けるかもしれないのに、希望を与え続けることは無責任ではないだろうか。
こう言う事によって、うつ病の人を助けていると思うのは勘違いだと思う。
辛いことを認識し、理解する。そして希望を与えると言うことは、自殺率を下げるには効果はあると思う。しかしながら、それはただ死んでいないだけであって、その人が苦しみ続けていることに関しては変わりは無いのだ。
じゃあ、どうしろって言うのか。そう思われると思う。
苦しみ続けている人が大勢いて、その人を助けることは出来ないなんていう事が、もし事実としてあるのであれば、悲しすぎる。
ありがたいことに、そう思う人は多いと思う。
もう一度、身体障害のある方を例に出させていただきたい。
例えば、目が見えない方。彼らは毎日、何とかして見たいとあがき続けているだろうか。腕が動かない方は毎日動かしたいと涙するのだろうか。
自分はそういった経験がないので、軽々しく言って良い事ではないと思うが、そうではないと思う。だけど、出来ないから彼らは幸せでは無いのかと言われれば、それもまた違うと思う。
別に彼らも、希望を完全に捨てた訳ではないとも思う。もし医療や科学が進化して、出来るようになれば、とても嬉しいことだと思う。
だけど、また前と同じように社会へ戻ることではなく、今の体で出来る事、楽しめることを、精一杯頑張っていらっしゃるように見える。
彼らには不自由は無いなんてことはない。毎日大変だとも思うし、支援だって十分とは言い切れない部分はあると思う。
だけど、彼らはうつ病の自分から見ているからかもしれないが、幸せそうな人も多いような気がする。
そういったように、うつ病の人がうつ病として生きていけばいい。
ただうつ病である人間として、可哀そうとか、上とかしたとか助けるられるとか関係なく、ただうつ病というものとして。うつ病であるけど、それを普通に持った上で幸せを目指せばいい。
こういう風に簡単に言うことは簡単に出来るのかもしれないが、これがまた難しい。
もしそれが出来るのなら、それが良いのかもしれないが、実際、今の社会では無理だ。
また、それが出来るような夢のような世界をイメージしようとしても、それがどういった世界なのかすらも、当の本人でさえイメージすら付かないくらい難しい。
だから、点字やスロープ、手話、その他たくさんの、何か障害があっても出来るだけ普通に暮らす仕組みというものに、うつ病の人が助かるものというものが存在できない。
ここでもまた、この「分からない」が邪魔をしてくる。
これが精神病患者の理解がどうしても進まない理由でもあるし、どうにもならない理由だとも思う。
また、うつ病は、出来ない事が多すぎる。それだけならまだしも、何が出来ないのか、それを助けることで出来るのか、それとも助けようと動かれるだけでしんどいのか。それすらも分からない。
いくら凄く有能で良い人があふれている社会があったとしても、うつ病側から見れば、それは別に夢のような世界でも、普通に生活できそうな世界でも無いのだ。
そんな人間が、何も出来ないまま社会に出る。
これは今の社会では中々厳しいものがある。
だけど、もしうつ病の人を助けたいのであれば、うつ病の人がうつ病の人として普通に生きられる社会が必要だと思う。
大変だろう。色々出来ない事、ダメなことがあって難しいと思う人がほとんどだと思う。しかも、実際はその想像のはるか上を行くくらい出来ないし、大変だ。
不可能と、ほぼすべての人が思う事なんかでは済まない。その数十倍は大変だと思う。
出来ない事が明白であれば、難しくても何とかなる可能性や、方向だけでも見えるが、うつ病にはそれすらも見えない。さっき出来ないことが多すぎると書いたが、それらすべてが本当に出来ないのでは無かったり、どれくらい出来るかも人によるし、その日の体調にもよる。
もういっそ、甘えとしてしまった方が楽なんじゃないかと、考えれば考えるほど思ってしまう病気だ。
そんな病気の人が、普通に暮らすための仕組み(こう書いていて全然イメージは出来ていないが)、が十分では無いのは確かだ。
だけど、十分で無いという事も証明できないから誰も触れないし、問題にもならない。
本人にだって十分かどうかすら分からないから、お願いすることも、願う事も出来ない。
だけど一度考えてみて欲しい。自分の生活圏内にうつ病の人がいたら。
仕事場に、いつも遊ぶ友達に、家族に。
心配はするだろう。だけど、それ以上は難しくないだろうか。
家族や友達ならまだしも、仕事場にいたら、今まで通りに出来ますか?
ただでさえ大変なのに、そんなことできる訳無いだろうと思う人がほとんどだろう。
見えないなら見えない、歩けないなら歩けないで、分かっていれば計算出来るが、うつ病に関しては、出来ないことも多ければ、計算することも、予測することも出来ない。
だから、何とかしてうつ病の人を治して、普通の人の社会に戻そうとする。
それしか助からないからだ。
治らないと認めることは、社会にもう戻れないと認めることになってしまう。そこまで言う勇気がある人はいないし、もしいても悪い人、理解の無い人とけなされてしまうだろう。
それに、そんなにも出来ないことがあって、毎日苦しくて、怖くて、そんな人がいたら、どうしたって可哀そうに思ってしまうのだ。
事実としては、出来ない、怖い、苦しい、辛い、それが延々続く。それだけと言いにくいが、それだけと言ってしまえばそれだけで、可哀そうかどうかは本来関係ないはずなのだが。
幸せの定義が何か。それは非常に難しいが、うつ病の人は不幸せにしか見えない。とても可愛そうに思ってしまう。
本人はもう治るとも思えなくて、だけども、その状態で生きていくしかなくて、何も出来ないけど、毎日必死に闘っている。
うつ病の状態でどうやれば生きられるのか必死なのだが、周りから見れば、どうにかして普通に戻って欲しい、そう考えるのが当たり前のようになっている。
そこの考えのギャップもまた、問題になりうる。
戻る可能性があるのなら、戻って欲しい。自分の為とか、良いとされているとか、そういう事では無くて、可哀そうだから救いたい。そのありがたい優しさが苦しめてしまう悲しい現実がある。
もし、出来ないことが明確で、分かりやすければ何とかなる部分も今の科学ではある。だけど、うつ病には無い。
だけど、うつ病の状態で普通に生活することは出来ない。
だから、どうにかして戻らないと、未来が無いのだ。
だから希望を与えるしかないし、治そうとするしかない。
本人はこの状態で何とか生きようと頑張っているが、そんなことは関係ない。無理だと思っているから。他人事と思っているとまでは言わないが、本人でないとなかなかそこまでは考えられない。
目が見えない人に何とか見えてもらうように必死で何かをする人はいないのに、うつ病の人には何とか普通に戻るように色々してくれるのだ。
だから、うつ病の人を助ける事すらも出来ないのだ。