20歳から11年、いまだにうつ病に苦しむ人間の頭の中

20歳までは順風満々だった男がうつ病になり、すべてが終わったと感じてから、日常生活をぎりぎり生きられるようにまでは戻った人間の現在

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普通の水準を下げてみる

普通って何だろう?

普通の基準は人によってまちまちだと思う。お金でも考え方でも生活スタイルでも人によって普通の基準は違う。

 

なら一番普通の水準が低い所はどこなのだろうか?

普通なものなんて無いとも言えるので、完全なゼロという所におけるのかもしれないが、ここでは生きているということだけが普通という所に置いてみようと思う。

生きていることも普通じゃないとも考えられるのかもしれないが、生きていることは普通と思って欲しい。これは自分からのお願い。もし無理だったとしても、生きることだけ頑張って欲しい。もしそれも無理なら自分にできることはしますので、コメントやツイッターでお話ししていただけると幸いです。

 

お金持ちの人が破産したみたいな報道を見た時、生活水準は一度上がるとなかなか下がらないという話を聞くことがあるが、これは普通の考え方もそうな気がする。

幸せな生活を送っている人が急に不幸になったりすると、なかなか良かった時代のことを忘れられない。

うつ病などの精神病になったとき、過去にとらわれたり、周りを見てうらやましく思ったりする人は多いだろう。その人にとって昔の病気になる前の生活や、周りにいる人たちの生活が普通なのだと思う。そこに普通があるから、今普通のことが出来ないと思ってしまう。

この普通はなかなか下がらない。今の自分に納得しようとしても普通の水準が下がらない。下がらないんだけど、普通のことが出来ないのだ。これじゃどんどん自暴自棄になってしまう。

いくら出来ないことは仕方がないと思えても、普通に達せれていないという嫌悪感は残ってしまう。このままではずっとしんどいまま生活することになる。社会に戻れても、しんどい気持ちが抜けなければきつい生活が待っている。

 

これが正しいのかわからないが、自分はもう生きる為だけに生きることに決めた。生きるということすら難しくなった時にこれだけ!これだけのために生きようと考えた挙句出した結論だ。

生きる以外はもはや余白。寝れなくてもそれが普通。寝れたら凄い。外出れないのが普通。出れたら凄い。

周りの人を見たり、昔を思い出したりするので、調子がよくなった時、この水準はぶれそうになってしまうことは何度もあったし、こう思えるまで時間は何年もかかったが、今はもう生きる為だけに生きている。

ぶっちゃけた話、普通に考えれば周りから見た自分は、楽しいことなんて何もない人だろう。でも水準が低いから、誰かとお話しできた。買い物に行けただけですごく嬉しくなれる。出来なくて元々だから一個でも出来たら嬉しい。

こんな状態で何かを成し遂げるのは難しいかもしれない。

普通は水準をどんどん上げて、成長して、何かを成し遂げるのがいいとされている。そうやって教育されてきたし、みんなやってる。

自分は一度終わったから、出来てることなのかもしれない。もう終わった、あそこで死んでもおかしくない人生だったから、今はもう、いうなれば引退した後の選手みたいなもんだ。別に何しようがなんだっていい。難しいことや、社会に役に立つようなこと、感謝されるようなことは出来ないかもしれない。だって水準が低いんだ。そんなことは雲の上のことだ。

100mの所でみんな生活してるのに、床にいる人間が何かをしてあげるなんて出来ない。どうしたって手が届かない。

 

いつまでも床で生活するのかは分からない。いつか階段を作るかもしれないし、はしごが下りてくるかもしれない。それを登るかどうかも分からない。

生きていること以外全部もう余白だ。ただ生きて、やるようにやろうとしか今は考えていない。

真っ白い紙だから、どれだけ汚れようが破れようがもう知らない。新しい紙を積み重ねるだけ。真っ白だから、何にもない人間だから。汚れたところで失うものは何もない。ただ一日無駄だったというだけ。今日の一日の紙には何が書けるか、書けた瞬間もうそこで幸せが確定する。

そんなんでも別に生活は出来てる。十分だ。だって生きてるもん。普通は達成してる。確かにお金はない、なんか楽しそうなことはしてない。でもそれはそれでいい。

社会にとってはお荷物だろう。全く稼がない、全然消費しない。ただいるだけ。

もうそれでいいよ。

 

もし何かしたいなと思うことがあったら、その余白に書こうと思う。でももうかっちりと文章にしたり、きちんとするのは出来るかわからない。どんなことも余白の落書き程度でいい。

そうやって生活して、やりたいこと、やることは勝手に出てくる。みんな何かしらの理由があって頑張ってるんだ。一度捨てたから何かの頂点に上り詰めるのは出来ないと思うけど、床で生活してると、もうそんな所は遠すぎて見えない。今見える一番高い所は電車に乗れていたり、人ごみに入れる人。そこが今の自分の頂点。

今やりたいことをやればいい。もう周りには追いつけるとかそういう次元じゃない。見えないもん。それでも生きてれば何が起こるかわからない。

 

おすすめはしない。こうなったらずっとここにいるかどうかは、その人次第だけど、最下層まで堕落したものになってしまう。何かしたいことがあって進んでる人に一度スタート地点に戻ろうとはいえるものではない。人に勧めるのは違う。

だけど、楽だよ。こうやって生活してる人もいる。それを知って欲しい。そして、高い水準の普通を持っている、それだけで凄いんだという自信は持って欲しいなって思う。

 

今まで積み上げてきたもの、これを捨てるっていうのは、いままでの自分を否定するようなもの。どれだけ今まで頑張っていたとしても、今まで何もしてなかったとするもの。これは、なかなかしんどいとは思う。プライドも地位も名誉も(あったかは分からないが)いうなれば過去を捨てる。自分は結果主義で過程はあまり気にしなかったから少しはやりやすかったのかもしれないが、それでもきつかった。

でも今残ってる自分だけはいるんだ。頑張ってきた人なら色々と持ってる。目には見えないけど、自分はそれでよかった。

 

よく言えば、しがらみもコンプレックスも無くなった。人生再スタート。

これからどうなっていくのか全く分からない。スタートしたばっかりだもん。今日生きてれば今日のノルマは達成。生きるだけなら今の自分ではできる。

 

ゼロ地点でダラダラ生活してる。これはこれでいい。もし能力があるなら勝手に上るだろうし、死ぬまでここにいるのも、またそれも人生なんだろう。

 

みんな凄いよ。自分から見ればほんとに眩しいくらい凄い。引きずりおろしたいわけじゃないが、どうしてもダメなときは普通の水準を少しでも落としてみて欲しい。

最下層は楽だよ。なんにも出来ないけど。

生きていれば何かある。そういう人生でもいいじゃないか。

八方美人の苦悩

 

はじめに 自分の経験等から思うこと

皆さんは八方美人と聞いてどんなイメージを持ちますか?

 

誰にでもぺこぺこしてる。優柔不断。裏で悪いことしてそう。本音が分からない。イエスマン。つまらなそう。

結構悪いイメージがあるのではないでしょうか?

 

自分は八方美人だ。だからあんまり自分を持ち上げるようなことはしたくないのだが、ちょっと、一八方美人の人間として苦悩について書きたい。少しでも理解が深まればと思う。

 

確かに上に書いたような悪い印象が付くのは仕方がないと思う。客観的にみれば自分もそう思う。イエスマンでなく、こういう言葉があるか知らないが自分はノーマンだ。大概反対している。でも、その考えを否定することはしたことない。むしろその意見を理解したいと思っている。その人の考えを詳しく知りたいから、反対意見を言って、もっと理解しようとしてる。否定することは自分にはできない。賛成はしてないが、すべての意見を取り入れようとしている。

裏で何かをしてないが、そうすることで嫌われるということを意識しているかもしれない。この辺りは人によるのかもしれない。自分にはいないが、信用できる人がいる人は、そういったはけ口を作っているのも想像できる。普通に生活する上で嫌なことはあるはずだ。貯めこむか出すか、人によるだろうが消えることはないと思う。そういう意味では、裏で吐き出してると思うのが普通だ。吐き出さないとすればその人はいつか壊れる。自ら壊れに行く人なんて普通いない。だから裏で何かをしてると思うのが普通なんだろう。

 

自分としては、どんな人も好きだし、誰とでもとも楽しめる。だから誰とでも仲良くしてるだけ。どんな意見も間違っているとは思わない、考えは人それぞれでどれが正しいとかは無いと思ってる。だから否定しないし、どんな意見も聞きたくなる。

こういう考えが八方美人になった原因なんだろうな。と思う。八方美人になりたいからなったとかではない。気が付いたらそうなってた。これはほとんどの人がそうでないかとも思う。

 

別に八方美人が悪いと言いたいわけじゃない。むしろ自分は良いと思ってる。だから八方美人になった。だけど、限界があると思う。知らない間に自分を苦しめてると思う。

 

 

八方美人の苦悩 

どんな人の意見もちゃんと聞き、取り入れる。これは良いことだ。間違ってる人なんていないし、ちゃんと聞いたほうがいい。だけど、どうしても合う合わないがある。人それぞれ考えがあって、どうしても矛盾する考えもある。相手を尊重して、それらも含めて取り入れることは出来るが、どんどん取り入れていると、いずれ自分を失う。

すべて正しいし、すべて間違ってる。なら、自分はどう考えているのか?これに対する自分の答えを失ってしまう。どこかで自分の意見としてまとめる必要があるのだろうが、それが出来ない。まとめてしまうとその時点で誰かを否定してしまうことになるのだ。それが出来ないから考え続ける。答えなんて無いのだけれど。全員を受け入れるには形のあるものではどうしてもつっかかる。無になるしかない。そうやって自分を消してしまう。

みんなが好きだし、みんなの意見を聞こうとしているのに、自分のことは好きになれない。自分の意見がどんどんないがしろにされる。

 

自分の意見がなくなると、次は主張できなくなる。客観的にみたような賛成意見、反対意見はいくらでも出てくるが、そういうのを無視して、自分はどうしたいのかが分からない。だからわざわざ主張する、主張したいと思う意見が存在しない。なんだって言えるが、なんにも言いたいことはない。

 

別に悪いことではないかもしれない。自分の感情に振り回されず、周りをよく見て、大きく見れば良い意見が言える。しかし、ここでも、自分に無理をさせることになってしまう。ここでも自分というものは存在していない。

 

自分がやりたいこと。これが自分の行動する上での一番の原動力にならないといけないのに、それすらも客観的に見て、悪いと思う所は何も気にせず切り捨てる。はじめは良いかもしれないが、どんどんボディーブローのように効いてきてしまう。どんどん自分を見失って、ロボットのようにいい考えを求める。

 

自分の意見を決められないという点もある。

すべてが正しくて、すべてが間違っている。だから、今決めろと言われれば、どちらかを言うことはできるが、それにすべてを託せない。それは別に自分の意見でもなんでもない。決めただけだ。悪い所も見えながらの判断になる。自分がどう思っているのかではなく、自分は今どっちがいいと思っているかという意見しか存在しないからだ。

騙されたと思ってやってみろ。という言葉があるが、すべての行動がそういう形の行動になってしまう。みんなが前を向いて走っているのに一人だけ周りを気にしすぎているため、疲れが数倍になる。騙されきれない。何かを信じ切ること、割り切ることが出来ないのかもしれない。

八方美人な人は頭が回る人に多いとよく言われるが、いくら頭が回っても、その疲れをなくすことは出来ない。どんどん疲れて、しかも、自分が見えてないので貯めこむ。

 

 

良いことをしている。これがみそのような気がする。人よりも考えて、自分の主観も入れてないから、間違ってない、正しいと思えてしまう。だから頑張れる。良いのだから。頑張ればいい方向に行くのだから。そうやっていつの間にか限界を迎えて壊れる。

考え続けてるから、なかなか意見が変えられない。大量の意見の中に一つ二つ入ってきたところで誤差だ。良いと思う方向に向かうのに変わりはない。頑張り続ける。

自分という意見がない。それが大きく見た時に、本当にいいことなのかもしれないが、自分一人で出来ることではない。いつか壊れる運命なのかもしれない。

これが八方美人の怖い所だ。

 

壊れる前に人に相談したり、何かを変えればいいと思う人も多いだろう。

でも八方美人は人に相談できない。その相談相手を困らせてしまうという思いがどこかにある、という面もあるだろうが、自分自身で相談できてしまうのだ。意見や考えはすでに自分の頭の中に大量にある。人の意見を聞いても素直に変えることは出来ない。すでにある考えか、もしなかったとしても、自分を変えるくらい大きい考えであることなんてほとんどない。それもまた大量にあるうちの一つの意見として吸収し、さらに自分を締め付けてしまう。

それに、しんどいということになかなか気が付けないのだ。別にしんどくもつらくもない。そうなると人に相談したいという気持ちすら湧いてこない。

 

八方美人のメリット

苦悩を長く書いてきたが、八方美人であることがすべて悪いわけではない。良い面ももちろんある。まあ、いい面がないと八方美人な人なんていないと思うし、当たり前ではあるのだが。。

 

なによりも一番大きなことは、嫌われないこと。八方美人と聞くと嫌なイメージを持つ人が多いが、まず嫌われない。自分自身嫌われたくないからこうなった面もあるだろうが、常に気を張って生きているので、他人のナイーブな所へ土足で入ったり、嫌なことをし続けることなんてありえない。周りが喜ぶことを自動的に選択しているので嫌われない。むしろ好かれる。

そういった意味で友達はめっちゃできる。関わった人のほとんど全員と友達になれると言ってもいいだろう。多少合う合わないなどで距離を置きたい人もいるかもしれないが、なりたいなら誰とでもなれる。八方美人な人には誰とでも楽しくできる人が多いだろうから、これは大きなメリットになりうる。

これは上下関係なく起こる。先輩からは一目置かれ、後輩からは慕われる。だから成功者のイメージからは八方美人な感じが見える人も多いだろう。誰とでも嫌な気持ちをせずに仲良くなれるし、話せるメリットは大きい。

 

あとは周りが凄く見える。周りを常に見て気を張っている。しかも否定せずに受け入れて、考えているから、バランサーやムードメイカーとしては最高の逸材だ。

どんな考えであっても言いやすいし、それをまとめる力がある。常に頭の中でやっていることだからだ。どんな考えであっても、それを制止する意見、それを乗せる意見、色々な考えが頭の引き出しには大量に詰まっている。話し合いや会議に一人いれば、うまくいくことが多いだろう。大勢の中の一人として、嫌な言い方をすれば便利な存在だ。

 

あと、相談を受ける者としてもいい役割を持てる。

どんな話でも聞くから、聞き上手であることが多い。相手の意見を知りたいから引き出し方もうまい。それに色々な考えがあるから提示できる意見も多くそろえている。ほとんどのことのメリットデメリットを見ているので、初見の悩みというのもほとんどない。すでに自分と何度も考えた問題であることが多い。

だから、相談相手としてはいいことづくめ。それに、多くの人に好かれている人が多いから、多くの人の意見も知っていることが多いし、誰からも相談しやすいという面も大きい。

 

まとめ

こういったメリットもあるので、一概に八方美人はダメだ、とは言えないと思う。

しかし、忘れないでほしいのが、こういったメリットはすべて、八方美人の無理によって成り立っている。無理してメリットを得るのは普通のことで、悪いことじゃないが、問題はこの無理や苦労に気が付かないことだ。もし気を付けていたとしても、気が付くことも相当難しいと思うし、もし気が付いても変えることはなかなか出来ない。

自分の意志で、そうするのが自分にとっていいから、やってるのだ。

だからいちいち口を突っ込まなくてもいいかもしれないが、この事実は知っててほしいと思う。それに、出来ることなら、自分の周りに八方美人な人がいれば気にかけてくれれば幸いだ。

 

対策

ならどうしたらいいのか。苦しみ続けるしかないのかというと、そうではないと思う。

言い方は悪いが、八方美人で、はけ口がある人は、その人を大事にしてほしい。いつも悪いという感じで何かしてあげてもいい。その人のおかげで自分が助かっているという意識を持っていいかもしれない。相手は好きで聞いてる訳ではないかもしれないが、それを聞いてなお側にいてくれているのだ。自分よりも自分のことを知ってくれている。自分を思ってくれている。本当に大切な存在だと思う。

 

問題は貯めこんでいる人だ。

貯めこむのは危ない。

一つとして、もう開き直って、バランサーとして八方美人として堂々と生きるのもいいかもしれない。悪いことじゃないんだ。むしろ自信持っていけるなら、すごくいい人になれると思う。心配なのは壊れることだけど、そうであることに自信をもって行ければ、それがストレスにならないようにすることは可能だと思う。確かにこれは難しいし、一度壊れた経験のある人にはもっと難しいと思う。だけど、その能力がある人はいるし、鍛えることも出来なくはない。しんどい道にはなるとは思うが、重要な人間になれるし、凄い人になれる。八方美人であることに自信が持て、生きがいとして最後まで走れるならこれに越したことは無いのだろう。

 

だけど、これは難しいと思う。誰にでも出来ることではないとも思う。おすすめは出来ない。だから貯めこむ人にはこれから書く下の方法が自分としてはおすすめする。

 

 

一つとして、頼れる人がいるかどうか。これが大事になってくる。自分が信頼できるっていうのもそうだし、相手も自分のことを思ってくれている人。これも難しいかもしれない。思っているより自分のことを思ってくれる人はいると思う。思うが、自分が信頼できる人、という所が難しい。信頼できる人、頼りたい人というのは自分にとっては凄く大事で、一番気を遣う人間でもある。だからその人は、自分の悩みを話すのには一番難しい人でもあると思う。

だけど、出来るなら一人でもいいので、しっぽりと、出来るだけ長く、話せるだけ話してほしい。少しずつでもいい、どんな形でもいいから話してみて欲しい。

八方美人の人は相談できない人が多いとは思うが、誰だって悩み相談してるし、それでも割り切るのは難しいとは分かる、分かるんだけど、もし本音で話すことが出来たら、本人にとって大きいものになる気がする。気にせずに話せると、いつもと違う感覚を得れるし、自分のことを分かってくれている。分かってくれる人間が自分以外にいるというのは凄く頼りになる。

それが出来ないなら、誰でもいいので全く気を遣わずに喋ってみて欲しい。なかなかできるものでもないが、最初に今日はしんどいから、疲れているという所から入って、出来れば最初から最後まで、意識して気を使わないで話してみて欲しい。

お酒の力を借りるのも一つの手かもしれない。

そんなに気を使わないでいいんだっていうことを分かって欲しい。当たり前のような話だが、以外に目がいっていないと思う。思っているより気を使っているし、思っているより気を使わなくていいことが、もし分かれば嬉しい。そうする中で信頼できる人、気持ちを話したいと思える人に出会えるかもしれないとも思う。

 

まず動かないと始まらないが、動くことは難しい。それは分かる。でも、どこかで頼れる人がいないと自分は厳しいんではないかと思うし、頼れる人が一人でもいて欲しい。

 

極論を言ってしまえば、誰にも嫌われないために、みんなに好かれるために、どれだけ気を使っても八方美人であるということで嫌われてしまうのだ。もしそうでなかってとしても、そう意識して、そう思ってみて、もう嫌われていると思って、一度でいい。一度でいいから嫌われに行ってみて欲しい。絶対新しい感覚をつかめる。そしてその感覚は今後絶対に大切になってくると思う。怖いし、自分の生き方と真逆の生き方だ。出来なくて当たり前だ。でも新しい考えが手に入るとでも思うと、多少行きやすい部分もあるかもしれない。

 

これは自分の希望も多少は入ってるが、どこかで頼れる人を見つけるのが一番大事だと思う。ほんとはいるのだが見えない。そうは思えないという部分も多いだろうが。

他人頼りでいいと思う。もしかしたら一人ではどうにもならないくらい大きい問題の可能性もある。助けになるからとかいう堅苦しい形だけじゃない。どんな時も、相談したい時から下らない話まで、頼れる人の存在は大きすぎると感じる。

 

最後に

八方美人の人間の苦悩を少しでもわかってもらえたら、苦しんでいる人が一人でも、少しでも、楽になれれば嬉しい。

苦労していると感じていない人は多いかもしれないが、もう一度自分と素直に向き合ってみて、一度苦労していると思ってみてもらえればうれしく思います。

八方美人

あまりいい印象は無いとは思う。でもその人にはその人の苦労がある。

じゃあ別の人にはないのか、八方美人が一番苦労しているのか。そんなことはない。もっと苦しんでる人も多いと思う。

だが、今回は経験者として、感じたこと、思ったこととして書かせていただきました。

一八方美人としての考えを知ってもらえると嬉しく思う。

 

また、自分事ではあるが、自分は悩みとか不安とか、大きなショックも無く、きっかけが無く、うつ病になった。

振り返ってみて原因と思えることは考えすぎという点だった。だからこの記事を書いたという事もある。自分が正しいと思う事、社会にとって良いとされていると感じることを何のしんどさも、嫌さも、苦しさも無く、楽しく幸せに選択し続けていた自分が、いつの間にかうつ病になった。

心配させてしまうかもしれないが、人間は一度壊れてしまうとなかなか治らない。

だから、どこか、頭の片隅にでも経験者の言葉として残して頂ければと思う。

あなたが傷つくことを周りは望んでいない

当たり前のような話。

当たり前のような話だが、周りのために自分が苦労することは誰しもしていることではないのかと思う。

 

この言葉は凄くきつい言葉だ。周りのために苦労している、頑張っている人に追い打ちをかける言葉。出来れば言いたくないし、そもそも信じたくないと思っているかもしれない。

でも、それでもそう思わないと、そう信じないと自分は動き出せなかった。今でも自分をいたわっているとは思えないし、周りのためにと勝手に思って、どんどんしんどくなっているとは思う。なかなかそうは考えられない。

でも、今は自分が苦労する、頑張るという行為自体が周りに心配をかけさせ、周りを悲しませているんだろうなという意識は持てているとは思う。

周りのために頑張れば、周りの嫌なことを自分が引き受ければ、周りに感謝されれば、自分は良い人でいられると思っていた。でも、それは違った。自分が思っている以上に心配をかけ、悲しませていた。

 

確かに、自分がどれだけ苦労しようと、その結果だけしか見ず、喜ぶ人もいる。自分はそういう人であったとしても、ひとりでも喜んでくれればそれでよかった。だからなんだってしたし、周りが少しでも笑うために動いていた。もともと好き嫌いが少なく、しんどいことや汚れ仕事であったとしても楽しめたというのはあるだろうが、そうやって認められる、喜んでもらえるのが凄く嬉しかった。

でもその陰では、自分のことを思ってくれる人を悲しませていた。

気づかなかった。というより、気づいていたのに受け入れられなかったのかもしれない。だったらどうしたらいいのか分からなかった。周りのためにやっていると態度に出すのは嫌だったが、動くことは悪いと思いたくなかった。

相手に喜んで欲しいのに、何もしない。好きなことをやる。それが正解だなんて思えなかったし、思いたくなかった。

 

情けは人の為ならず

 

こういう言葉がある。情けをかけるのは人のためじゃない。自分のためだという言葉だ。

分かっているつもりだった。別に誰かのために苦労してるわけではない。自分が褒められたいから、嬉しいから、やりたいからやってる。そう思おうとしてるんじゃなくて、そう思ってやっている。

だけど、どこかに、人に為に動いてるんだから迷惑にはなってない。他のことをするよりは役に立っているはずだ。と思いこもうとしていたかもしれない。

完全に自分のエゴだ。世間的に、普通よく思われている感じとして、良い人になって、いい人と思われたいというエゴによって周りを振り回してた。

 

全く気付いていなかったわけじゃない。見えてたのに見ようとしてなかった。自分が苦しめば、自分がつらい思いをすれば、それを忘れられて正当化出来てたんだと思う。

 

世の中ではよく、これは良い、これは悪いと言われる。でも一つ一つ細かく見ればいいか悪いかなんてその人次第だし、自分で変えることなんてできない。

苦労している人は責めにくいからという相手の良心をつくために頑張ってたと言われても今の自分には何も言い返せない。

 

こうやって周りのためにと思い込もうとして、それだけを見てきた自分は、自分のことについて何にもわかって無い。何をしたいのか、何をしたくないのか全然分からない。

こんな自分じゃ自分を幸せにすることなんて出来ないし、周りを幸せにするなんてことは出来るわけない。

幸せな人は周りを意図せず幸せにしてる。こんなエゴに取りつかれた周りばっかりを気にして自分の意志を持たない自分は、言ってしまえばいてもいなくても変わらない存在だ。

 

すべての人に好かれようとする強欲な考えに取りつかれて自分の意志を失った。

 

極論、何をしたって相手を喜ばせられるし、何をしたって相手を傷つける。

自分を無視して嘘ついていたっていつかは気づくことだったんだろう。自分を知らない薄い人間、面白くない人間だ。

 

もしかしたら、誰からも好かれるためには自己犠牲の精神で死力を尽くすべきなのかもしれないが、それをできる人間なんていないと思う。自分にはまったくもって無理だった。それを目指すだけならいいと思われるかもしれないが、目指した結果、大事な人を悲しませる人間に落ちた。こういう人間は落ちた後が大変だ。大変だった。何も残らず、生きてるだけで大罪のように感じる。

 

なんか自虐の話になってしまって申し訳ない。こんな記事は自分に言い聞かせるようなもので、公開するべきではないのかもしれない。

一つ経験したものとして参考になれば嬉しく思う。

 

自分もこのことについてはだいぶ考えた。これも正解とは思えないが、少しは自分と向き合えたかなと思う。

みんな一人一人が幸せな社会が理想だし、その礎となる人間なんていらない。そんな礎の上に立って幸せだなんて思えない。

迷惑かけてもいい、傷つけても仕方ない。そんなことよりも隣のあの人が悲しむほうがずっとつらい。この考えは自分だけじゃなくほとんどの人が持っている。

そんなことも見えてなかった。

今はかすかに見える気がする。