20歳から11年、いまだにうつ病に苦しむ人間の頭の中

20歳までは順風満々だった男がうつ病になり、すべてが終わったと感じてから、日常生活をぎりぎり生きられるようにまでは戻った人間の現在

MENU

テストを受けて思い出した負け犬的結果主義理論

自分はどういう人間で、どんなことがしたいのか。

うつ病になって8年。そういった意味の無いことを考える時間が多い。

何かしたいことは無いのか。無いのなら病気になるまでは何を目標に、軸に生きていたのか。

 

振り返ってみると、自分は別に何もしたくなくて、何もせずに生きてきたわけじゃない。むしろ色々やりすぎて忙しかったくらいだった。そこそこしっかりした部活に入り、友達も多く、よく遊んでいた。勉強も自慢じゃないが、医学部に入れたくらい頑張った。

 

でも、どれを見ても自分がしたかったことは何一つなかったのかもしれない。

 

遊んだのも、周りが喜ぶ姿を見るのが嬉しくて、もっと周りが笑って欲しかったからだ。(これは自分のしたいことともいえるかもしれないが、、)

部活も誘われたから入った。別に勝ちたいとかベスト○○に入りたいとかはなく、別にサボっていたわけでもないが、特に苦に感じることも、やめる理由も無かったからやっていただけと言われればそうなる。勉強だけは凄く頑張ったと言えると思うが、親を喜ばせたい、凄いと思われたいからやっていた。

医者になりたい理由。先生や面接などでたいそうなことを言っていたと思うが、ただそれだけだった。自分を納得させるために勝手に作り上げていただけなのかもしれない。

 

 

ここまでは結果論主義と結びつかないような気がすると思われる方も多いと思うが、こういった背景が、自分を結果主義に傾けた理由なんじゃないかと最近思うことが多い。

 

主体が自分じゃない。

自分がやりたい、成し遂げたい、得たい。そういったものでないから、その途中経過なんてものはどうでもよくなってしまっていた。

心の底からこれがしたい!というものが無かった。無かったというより、自分で消してしまっていたのかもしれない。

結果何を得たのか。それが周りにどういう影響を及ぼしたのか。それが自分にとって一番大事だった。

 

そうなってくると頑張るということは意味をなさない。結果何が出来たのか、何を得たのか、それにしか興味がなかった。

凄く頑張っている人を見て応援したくなったり、好感を受けることは確かにある。しかし、それを自分に当てはめることは出来なかった。

 

もう少しだけ、自分のことを振り返ってみる。

自分は器用貧乏というか、なんでも浅く広くやる所がある。何かにのめりこむことも無ければ、嫌ってしないこともない。しんどい練習や勉強にも楽しさを見出せたし、凄く楽しいと思ったことに突っ走ることも無かった。やっぱりその楽しさの中にはどこか周りの人というのがあった。

 

自分がすること。その中に楽しさがなくて、何をしたのか、周りがそれに対しどういう感情を得ているのかが重要だった。

なぜこうなったのかは難しく、断定はできないが、そういう人生を歩んでいた。

 

 

ではこうなった場合。結果主義になった場合。どうなるのか、自分の一例から考えたい。

 

こうなった場合、自分のことをどうしても客観的に見てしまう。

もう一人の凄く嫌いな自分Bを作ってその人を見ているかのように自分を見てしまう。

(客観的に見るということは厳密には出来ないと思うが、自分というものをどんどん見失ってしまうというような感じで思って頂けると幸いです。)

 

確かに勉強でもテストでいい点数を取れないと周りは気づかないし、運動でも試合で勝たないと強いかどうかは分からない。

いくら頑張っていたって、時間をかけたって、結果を残さないと分からない。

そういった考えが自分の中にあった。

結果というのは凄くわかりやすい指標だった。

 

確かに何かに向けて頑張れば、その求めていた結果が得られたとしても得られなかったとしても何か残るものがあるはずだ。それはドラマや映画などを見ても分かるし、実際に周りを見ていても感じることが多い。

 

でもそういったものは自分にはなかった。

別にサボっていたわけではないと思う。部活に関しては大した戦績も残っていないので何とも言えないが、勉強は確かに頑張ったと言ってもばちは当たらないと思う。

結果関係なく、頑張ったことは頑張ったって言っていいはずだけど、ここでも結果ら自分を見てしまっている。

 

しんどかったか、無理をしていたのかと言われれば、分らないが、合格したと分かった時、入学した時、嬉しさとか何かこみあげてくるものはほとんど無かった。無かったと言えば噓になるのだろうが、何かほっとしたというような気持ちが強かったことは覚えている。

 

大学へ行けるということは確かに嬉しかった。だけどこれを経験して一皮むけた、成長したという感じは全くなかった。ただ合格しただけだった。

 

自分の人生において、これは頑張ったと言えるようなものはテストくらいだった。別にずっと頑張っていたわけではない、高校二年生の時のただ一年だけのことだけど、これしかないかもしれない。

 

だから、頑張って結果が残ったということは嬉しいはずなのに、嬉しさはあまり感じなかった。普通に考えればおかしい話だが、実際そうだった。

 

元々、結果主義ということもあり、何かを残さない努力というものを認めていなかったのかもしれないとは思う。他人に対してそういった思いを抱いたことはないので見えていなかったが、そういった考えは自分の中にある。

 

そうやって結果が残らないかもしれないという不安から、努力するということから逃げ、極めるという所から逃げ、出来るだけ「普通」に過ごそうとしていたのかもしれない。

簡単に言えば負け犬だ。負け犬根性なのに頑張ってしまったから、結果が出ないことが凄く怖かったのだと思う。だからほっとした。

 

頑張ってしまったから。

 

 

結果主義が良いのか、過程を大事にすることが良いのか、そういった話になると難しいが、結果主義に偏ってしまうと、なかなか努力をするという過程に対して怖さが出てきてしまうような気がする。

 

どうせ出来ないからしない。これぐらいならそこまでの影響は無いのかもしれないが、やったからには結果を残さないといけない、となってくると話は変わってくる。

 

プレッシャーが大きすぎて、どうしても動けなくなるし、動いた後もう止められなくなってしまう。

 

どれだけ頑張っても、何をどれだけ何時間やったとしても合格しなければその大学へは行けない。

どれだけ勉強しても、頭が良くなったとしてもテストでいい点を取れないと意味がない。

確かにそうなんだけど、そうやって追い込むことで合格することが出来たんだけど、その考えが強すぎたのかもしれない。

 

結果何を得たのかで評価されることは多いし、頑張るということは極論を言えば意味はないと言えるのかもしれないが、意味はなかったのだとしても、そこに意味を無理やりにでも作る意味はあるんじゃないかなと、こうやって振り返ってみると思う。

 

ただの自己評価になったしまうのかもしれないが、それでいい。自分だけであったとしても、その努力を評価してあげないといけない気がする。

 

 

結果主義を否定するつもりはない。現にこの考え方で20までは最高の人生を過ごさせていただいた。

 

だけどもう少し自分を認めてあげたらいいのになと感じた。

 

今は何も出来ていないから、こういった考えが生まれてきているのかもしれないが、もし何かを頑張れる時が来たとしても、この考え方は大事にしていきたいと思う。 

 

ただ認められたい人生だった。

多分今もそうだ。

だからこうやって今ブログやツイッターをやっているのかもしれない。

精神状態が悪い状態で追い込まれた場合

はじめに、自分はうつ病です。そして今、調子はまあまあ悪い状態。

もう一つ挙げるなら、自分は昔、いわば受験戦士と言われるような人間であって、集中するのは得意というか、テストとなると、今はやりの言葉で言うと全集中出来る人間だと思う。

自分のことをダラダラ書きたい記事ではないので簡単に書くと、高校の時体育会系のそこそこ忙しい部活に入り、それでいて医学部を目指していたのもあってそういう体になった。ミスは絶対許されないし、自分の力を100%出せないと受からないから、普段からプレッシャーをかけ続けてたらこんな体になってた。

 

これ自体が悪いとは思わないし、そのおかげでうつ病になったため辞めてしまったけど、医学部に入学できたし、今公立大学にいられるのもこの体質のおかげだと思う。

 

 

自分の過去はここではどうでもよくて、自分はこの二つを持っていて、それでいてテストを受けるという体験を今日したので、その感想を書きたいと思った。

 

今までは調子がいい時しかなかった。2度目の受験の時、初めての休学をする前は調子が良かったし、2度目の休学の時はテストまで持たずに休んでしまったから、初めて調子が悪い状態でテストを受けることになった。

 

驚いたのは、集中は出来るということだ。今家で課題をしたり、授業を受けたり、何かをするときは凄い準備がいるし、集中なんて出来なかった。ダラダラと何とか耐えるような形で授業や課題をこなしてきた。

正直テストも耐えるような形であんまり集中することなくふわっと終わると思っていた。

 

だけど、思春期にできた体というか、習慣というか、これは凄く怖いもので、テストってなっただけでスイッチが入った。

だからと言って凄い集中できたわけじゃない。ほとんどパニックのような精神状態になりながら、でも今の自分の持っていける集中力は全部テストに持っていけたような気がする。高校時代を100とするなら1くらいの集中力だけど、普段は頑張ろうとしてもほとんど0なので、それが驚きだった。

 

ここで悲しかったのは、その時はそんなこと考えている暇も隙も無かったけど、どれだけ頑張れても1くらいの集中力しか今の自分にはないことだ。分かっていたけど、これは悲しかった。

 

もう一つ、今回書きたくなったのはこれが主な原因だけど、その1レベルの集中力であったとしても、自分自身のメンタルというか、心は限界だった。パニックになっていることが分かるレベルでドキドキしていた。

 

手汗も普通の汗も半端じゃなかった。真冬でしかも換気している為、凄い寒かったけど、80分汗が止まることはなかった。頭は確かに問題に向けられていたと思うけど、正直考えられているとは思えないくらいいっぱいいっぱいだった。多分集中力1でさえ今の自分にとっては限界をはるかに超えていたのだと思う。

出来たかどうかも分からない。ゆっくり振り返った今も、どんな問題だったか、どんな回答したか、ほとんど覚えていない。

終わった後外に出て、すぐに車に向かった。

運転席で放心状態で2時間ほど過ごした。

 

別に命が危なかったわけじゃないし、凄いことが起こったわけじゃない。ただ一つのテストを受けただけだけど、気持ち的には限界を超えていた。

 

 

別に追い込まれていたわけじゃないし、テストは事前に分かっていて、数日前から気持ちの整理をしていた。だけど、自分の過去から、ミスは出来ない。力を100%出さないといけないという習慣が、強迫観念に近いような感じになっていたのかもしれない。

気持ちは完全に追い込まれていたと思う。

 

そうやって追い込まれたら、うつ病の人間はどうなるのか、今の自分はどうなるのか、これに対して昔、少し興味を持っていたこともあって、帰ってきてから少し考えてしまった。

 

答えが別に出たわけではないけど、多分、自分はこれをしないと死ぬってなったとしても、出来ないと思う。

死に対して恐怖心がないが、そういう事ではなく、物理的に出来ないということに気づけたような気がした。

 

元々うつ病に対して、甘えている、本当は出来る、などと思っていたわけじゃないし、信じられていなかったわけじゃない。

だけど、誰よりも自分が自分の病気に対して懐疑的な気持ちをどこか捨てられていなかったというのは確かにあると思う。

 

出来ない経験も、苦しみも8年も続けてきたにもかかわらず、出来る限りの知識も入れてきたにもかかわらず、どこか完全に捨てきれていない部分はある。どれだけそんなことはないと思おうとしても完全に捨て去ることがどうしてもできない。

 

今回で完全に捨てられたわけじゃない。だけど、また一つ経験としてできたのは凄い良かったような気がしている。

凄く危ないような気もしたし、うつとか関係なく、これだけ心臓が動いて大丈夫じゃないだろって思うくらい体にも影響はあった。

 

だけど、自分は本当に出来ないんだ、ということを改めて実感した。

追い込まれたとしても出来ない。みんながみんなそうなのかどうかは分からないけど、甘えじゃないと思える一つの要素になるような気がしている。

 

当たり前なんだけど、本当に甘えじゃない。分かっていたけど、さらに分かれた一日になった。

生きられるから生きている。ただそれだけ。

生きられるから生きている。ただそれだけだ。

タイトルで終わってしまうような話だが、本当にただそれだけだ。

 

自分は死ぬことに関しては全く怖くない。むしろ死にたいと今でも思っている。うつ病になって8年、ほぼ途切れたことも無い、唯一思い続けていることかもしれない。

 

ただ、自分が死ぬことで周りを悲しませる。それの方が嫌だったというだけだ。自分がどんな思いをしようと自分にはほとんど響かない。本当にしんどい。つらい。この上は多分ないと、今までずっと自分の考えに疑問を投げかけ、反対の意見を探し、間違っていると考え続けた自分が、8年たってもこの上はないんじゃないかと考えるほどだから、ほとんどそうなんだと思う。

だけど自分のことから一歩離れると、すぐに上がある。たった一日、一時間、1分だっとしても、誰かが悲しむくらいならやりたくない。

だから今自分は生きている。

 

確かに、普通に生きていても絶対に何かしらの迷惑はかける。どれだけ外界と絶って生きようとも本当に一人で生きていくことは出来ないから。誰かと共に生きるということは、良い影響も与えるし、悪い影響も与える。これは絶対だ。どれだけ聖人でも悪人でも、どちらかだけということは無いと思う。

だけど、死んだらもう何もできない。取り返すことも、誤解を解くことも、謝ることも。最後だからだ。最後の最後で自分のしたいことのために、自分から周りを困らせて終わるということは自分には出来ない。本当に最後の時、自分が周りにいい影響を与えて終われる自信は無いし、問題を先送りしたいだけなのかもしれないが。

 

だから自分は生きている。それだけかもしれない。

 

 

うつ病などで働かない。自分の力でで生きていけない。助けられて生きていると思うと、要らない人間。迷惑な人間だと思う人はいると思う。

もっと貧しくて、大変で、辛くて、厳しくて、それでも頑張っている人はいっぱいいるし、何もしないなんて甘えている。頑張っていないだけって思う人もいるだろう。

何よりも自分がそう思ってしまっている。他の人に対して何かを言うほどえらい人間ではないし、他人のつらさなんて自分には分からないので、何も言いたいことはないが、少なくとも自分自身に対してはそう思ってしまう。

 

どれだけつらい思いをしようと、励ましの言葉や、そんなことはないと言われても、そうでは無いんだと、どれだけ考えようとしようとしてみても、どこかでそう考えてしまう。

 

だけど、よくよく考えてみれば、自分は生きられるから生きているだけだと思う。本当にただそれだけなんだと思う。

 

親が自分に対して嫌な印象を持っていたり、周りの人間に嫌われていたり、死ぬことに対して否定的な感情が少なければ、多分死んでたんだと思う。

どちらがいいかはわからないけど、それだったら多分今生きていないと思う。そして、なんだかそれでいいというような気持ちにもなっている。

こういうと悲しい気持ちになってくれる人もいるかもしれない。でもそういう人がもしいれば、自分は生きているだろうし、難しい感じになってしまっているが、生きているかどうかなんてそう言うものなんじゃないのかなという思いもある。

 

もし貧しかったり、福祉などが充実していると言えない国や地域でも多分同じことだ。甘えようにも甘えられないし、必死になって稼がないといけないだろう。

稼ぐために一生懸命になっていたら自分のことなんて見えない部分も多いだろうし、そもそも、こうやって悩むことも少ないかもしれない。もっと別の大変なことでいっぱいいっぱいで、こんな言ってみれば悠長な悩みなんて言ってられる状況じゃない。

いわば、裕福であるが故のぜいたくな悩みだ。

 

ぜいたくな悩みなんだ。

こう言うと反発はあると思う。うつ病は絶対に甘えなんかではないし、しっかりとした病気だ。やらないんじゃなくて出来ないのだし、こう言うのは嫌だ。

だけど、これは普通の人と、うつ病の人、貧しかったり厳しい状況でそんなことを考えられない人、死ぬことを選んだ人、こういった色々な状況の中から、幸せだったり良いとされるものから順番を付けようとしているということで、この人より頑張ってるとか頑張っていない、この人よりつらいとか幸せとか言っているだけで、実際どうなのかどうかなんて分からないんだ。

 

甘えて生きていようと、厳しく生きようと、成功しようと、失敗しようと、頑張ろうと、怠けようと、お金持ちになろうと、貧乏だろうと、生きていることには変わりないし、どちらが良いかなんて言ってみれば主観みたいなものだ。どれだけ勉強が出来て、スポーツが出来て、出世して、お金持ちになって、人気者になって、どれだけ手に入れても幸せかどうかは分からない。逆もまたそうだ。

言ってしまえば、やりたいから、出来たから勝手に手に入れたでけで、やりたくないから、出来ないからしなかったことに対して、文句をつけることは誰にもできない。

 

甘えられて甘えたいなら甘えればいいし、甘えはダメだと思うなら甘えなければいい。甘えられないなら仕方なくあきらめるしかない。

出来ることはしたいならすればいいし、出来ないことはあきらめるしかない。頑張りたいなら頑張ればいいし、面倒ならやらなきゃいい。

本当に簡単なことなんだと思うし、どこかで分かっていることだと思う。

だけど、どうしても踏ん切りがつかないというか、一般的に見た時により良くなりたいという願望が生まれてしまう。良いというものが曖昧だと分かっていながら。

 

うつ病は不幸。普通に見ればそうだけど、ほんとにそうかは分からないんじゃないかな。脳みそが正常に作用していなかったとしても、出来ないことばかりで家に引きこもることしかできなかったとしても、お金を稼ぐことが出来ず貧しい暮らしになったとしても、楽しいと思えなかったとしても、周りから人がいなくなっても、それは不幸なのかな。

人は死んだらかわいそうなのかな。人の生きる権利を奪うことは重罪と法律で決まっているけど、生きる権利を放棄することは不幸なのかな。

そう思いたいけど、死ぬよりも不幸なことは無いのかな。

 

みんながみんな、ある一定以上の水準で幸せを感じられたら一番いいのかもしれないけど、現状出来ない。その中で死ぬよりも不幸だと思っている人が存在する可能性だっていくらでもあるし、その中でもがき苦しむ人がいることも、死を選ぶ人がいることも簡単に想像できると思う。

それを見ずに、うつ病はかわいそう。自殺した人はかわいそう。こんな病気の人はかわいそう。貧乏でかわいそう。とただ言うだけなのはなんか違う気がしてならない。

 

自分は今、28にもなって2度目の大学生活を送っている。卒業できる自信すらないし、将来働ける気なんて全くしない。親がいなきゃ生きていけないだろうし、甘えていると言われれば完全に甘えていると言っていいと思う。

日本という社会に、親に甘えて他人のおかげで生きている。

 

だけど、生きられるから生きているだけなんだと思う。

甘えているかもしれないし、迷惑をかけているかもしれない。だけどそれでいいのだと思う。甘えることが出来たから甘えることでしか生きていけない自分が生きている。そういう物なんじゃないかなと思う。

 

もし違う環境に生まれれば違うかったかもしれないし、生きていないかもしれない。凄く成功して幸せだと言っているかもしれない。

ただ、今、生きられるから生きているんだ。

 

自分が何かいいことをしてきたのか、運がよかったのか、周りに恵まれたのか、時代に恵まれたのか、なんでかは正直分からないけど、自分は今生きられている。

 

分からないけど、生きることが出来ている。

申し訳ない気持ちがないわけではないし、出来ることが少しでも増えて欲しいという気持ちは確かにある。自分の力で生きていきたいし、ただ生きるということすらもものすごくしんどいけど、生きられている。

確かにいろいろな方の足を引っ張ているけど、無い袖は引っ張れない。

 

なんにせよ、今自分は生きていける状況にいて、生きていくことがいいと思っているから生きている。他の状況の場合はそこにいない自分には分からないが、今の自分は生きていける。

 

自分が生きられることが良いことなのか、良いことではないのか、足を引っ張ってでも、甘えてでも生きていくことが良いのかどうか。これもまた分からないけど、自殺する人間を減らしたいというなら、もっと多くの人にとって、生きられる社会になる必要があるんじゃないかな。

これだけ技術が進んだ現代、それでいいんだという考えが社会にできてくることを望んでいる。