20歳から11年、いまだにうつ病に苦しむ人間の頭の中

20歳までは順風満々だった男がうつ病になり、すべてが終わったと感じてから、日常生活をぎりぎり生きられるようにまでは戻った人間の現在

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うつ病の人がうつ病の人として普通に生きられる社会

うつ病は甘えではない」

自分がうつ病だから意識してしまっているのかもしれないが、なる前から何度も耳にしてきた言葉だ。

これは確かにそうであって、とても大事なことかもしれない。

悪い言葉とは言わないが、「で?」「だから?」と思うことがある。

 

この記事は、前に書いた、うつ病の人を助けることは出来ないという記事の続きのような内容になる。

 

ta-bo-50.hatenablog.com

 

この記事にあるように、うつ病の人を助ける方法は今のところ無いと言って良いと思う。

凄く悲しく、また、助けてくれようとする人を傷つける嫌な言葉だし、自分でも言いたくはない。

だけど、これはうつ病の側から言わないと、他の人から言う事は出来ない言葉だとも思う。自分を正当化したい訳では無いが、だから書きたいとも思う。

嫌な気持ちになる方もいらっしゃるとは思う。本当に申し訳ない。

 

 

だけど、「うつ病は甘えではない」。この言葉をちゃんと理解した人がいたとして、何が出来るのだろうか。

ここまで甘えじゃないと連呼されているにもかかわらず、その続きが無いのだ。

 

どうしてもそう思いたくない人もいるだろうし、なんと言ったって甘えと思う人もいると思う。

自分はその方を批判するつもりはない。

甘えだと思っている訳では無いが、そう考えていただいても仕方がないと思っている部分もある。

 

だけど、多くの人は甘えではないことは知っている気がする。

実際なった訳でも、身近にうつ病の人っがいて、見てきている訳でもなく、何となく思っている人が多いかもしれないが、それでも甘えじゃないと思っていただいている方が多くいる事は凄く喜ばしいことだ。

 

だけど、その続きが無い。

 

「大丈夫?」と声をかけたり、「ゆっくり、休んで」と何となく良いとされていることを言うことは出来る。

だけど、言わなくても分かっているとは思うが、それらはうつ病の人本人が一番分かっている事なのだ。

24時間毎日毎秒うつ病と向き合うしかなく、毎日苦しんでいる人なのだ。何か月、何年、何十年も。

テンプレートのようなことを言うなとは言わない。だけど、その言葉、その行動によって良くなるとは思えない。

 

前に、うつ病の本人の方が甘えだと感じてしまうことがあるという事も書いたが、何故出来ないのか、どうなっているのかが、分からなすぎる病気なので、無理もないとは思う。

それに、下手すれば死んでしまうともあれば、慎重になるのは当然とも言える。

 

分からない

これがこの病気の一番の問題かもしれない。

 

出来ないという事実は確かにある。どうやったって出来ないし、多少無理をすることで出来たとしても、尋常じゃないくらい反動が来る。

そういった事実は確かにあるのだが、良く分からないのだ。

 

だから、治ると信じるしかない。

だって、治らなかったら可哀そうだから。ゆっくり休めば治るって信じたい。

甘えじゃない。その人はしんどい、という事を理解出来れば出来るほど、どうすることも出来ないという事実には目を向けることが出来ない。

 

例えば、神経が死んでしまって目が見えない、腕が動かせないみたいに、分かりやすく証明できれば、また違う結果にもなると思う。うつ病は分からないから、どうしたって希望を持たずにはいられない。

 

さっき分からないと書いたのに、どうすることも出来ないと言い切る事は矛盾しているようにも感じるが、これは事実なのだと感じる。

自分でも信じたくない。この考え方が間違っていると思いたいが、考えれば考えるほどこう思えてしまう。

それに、本当にたくさんの方々に助けようと奮起していただいている。その方たちにも非常に言いにくい事ではある。

だけど、もう一度言う。どうすることも出来ないのは事実なのだ。

 

話を聞く、何かを手伝う、出来る事はあるにはある。しかしそれらはすべて枝葉の部分であり、根本は解決していない。

 

他の障害を持った方々にも、そういった意味では枝葉の部分しか支援することが出来ていないのも、また事実としてあると思う。

だが、精神障害というものはどうしても分かりにくい。

だからどうしたって、支援することが難しくなるし、逆効果等になる可能性も高くなる。

 

 

本当に治らないのか

確かに、治らないという事を証明しろと言われれば難しい。

なんせ分からないことだらけの病気だ。

実際に回復して社会に戻られた方もいる。

分からないのであれば、希望を持とうと思われる方は多いと思う。

だから、これだけの方々が何とかしてあげようと、色々なことをしてくれるのだと思う。

 

だけど、この「希望」がうつ病の人を苦しめているのではないかと思うことがある。

希望が残っていて、今現在、恐ろしいくらい辛いのだから、皆、この希望にしがみついてしまう。

もし、この希望が無ければ、死んだ方がましとしか思えないくらい辛いのだから、希望があることを良いと思う事も出来るが、この希望はただの延命のための希望なのではないかと思ってしまうことがある。

 

いつか治る。いつか社会に戻れる。いつか普通に生活できる。

そう思うことで、何とか生きていこうと思える。この苦しみ、辛さは死ぬまで続きますが頑張ってくださいと言われれば、折れてしまう人は多い。

 

だから、この希望を悪いとは言わない。

むしろ、希望を与えることで、たった一つでも助かる命があるのだとしたら、こう言うべきだし、たとえ間違っていたとしても、意図とは違う形だったとしても、希望を与えなければならないとも思う。

 

だけど、これが本当に正しいのだろうか。治ると信じて何年、何十年も苦しみ続けるかもしれないのに、希望を与え続けることは無責任ではないだろうか。

 

こう言う事によって、うつ病の人を助けていると思うのは勘違いだと思う。

 

辛いことを認識し、理解する。そして希望を与えると言うことは、自殺率を下げるには効果はあると思う。しかしながら、それはただ死んでいないだけであって、その人が苦しみ続けていることに関しては変わりは無いのだ。

 

 

じゃあ、どうしろって言うのか。そう思われると思う。

 

苦しみ続けている人が大勢いて、その人を助けることは出来ないなんていう事が、もし事実としてあるのであれば、悲しすぎる。

ありがたいことに、そう思う人は多いと思う。

 

もう一度、身体障害のある方を例に出させていただきたい。

例えば、目が見えない方。彼らは毎日、何とかして見たいとあがき続けているだろうか。腕が動かない方は毎日動かしたいと涙するのだろうか。

自分はそういった経験がないので、軽々しく言って良い事ではないと思うが、そうではないと思う。だけど、出来ないから彼らは幸せでは無いのかと言われれば、それもまた違うと思う。

 

別に彼らも、希望を完全に捨てた訳ではないとも思う。もし医療や科学が進化して、出来るようになれば、とても嬉しいことだと思う。

だけど、また前と同じように社会へ戻ることではなく、今の体で出来る事、楽しめることを、精一杯頑張っていらっしゃるように見える。

彼らには不自由は無いなんてことはない。毎日大変だとも思うし、支援だって十分とは言い切れない部分はあると思う。

だけど、彼らはうつ病の自分から見ているからかもしれないが、幸せそうな人も多いような気がする。

 

 

そういったように、うつ病の人がうつ病として生きていけばいい。

ただうつ病である人間として、可哀そうとか、上とかしたとか助けるられるとか関係なく、ただうつ病というものとして。うつ病であるけど、それを普通に持った上で幸せを目指せばいい。

こういう風に簡単に言うことは簡単に出来るのかもしれないが、これがまた難しい。

もしそれが出来るのなら、それが良いのかもしれないが、実際、今の社会では無理だ。

また、それが出来るような夢のような世界をイメージしようとしても、それがどういった世界なのかすらも、当の本人でさえイメージすら付かないくらい難しい。

だから、点字やスロープ、手話、その他たくさんの、何か障害があっても出来るだけ普通に暮らす仕組みというものに、うつ病の人が助かるものというものが存在できない。

 

ここでもまた、この「分からない」が邪魔をしてくる。

 

これが精神病患者の理解がどうしても進まない理由でもあるし、どうにもならない理由だとも思う。

 

また、うつ病は、出来ない事が多すぎる。それだけならまだしも、何が出来ないのか、それを助けることで出来るのか、それとも助けようと動かれるだけでしんどいのか。それすらも分からない。

いくら凄く有能で良い人があふれている社会があったとしても、うつ病側から見れば、それは別に夢のような世界でも、普通に生活できそうな世界でも無いのだ。

 

そんな人間が、何も出来ないまま社会に出る。

これは今の社会では中々厳しいものがある。

だけど、もしうつ病の人を助けたいのであれば、うつ病の人がうつ病の人として普通に生きられる社会が必要だと思う。

大変だろう。色々出来ない事、ダメなことがあって難しいと思う人がほとんどだと思う。しかも、実際はその想像のはるか上を行くくらい出来ないし、大変だ。

不可能と、ほぼすべての人が思う事なんかでは済まない。その数十倍は大変だと思う。

 

出来ない事が明白であれば、難しくても何とかなる可能性や、方向だけでも見えるが、うつ病にはそれすらも見えない。さっき出来ないことが多すぎると書いたが、それらすべてが本当に出来ないのでは無かったり、どれくらい出来るかも人によるし、その日の体調にもよる。

もういっそ、甘えとしてしまった方が楽なんじゃないかと、考えれば考えるほど思ってしまう病気だ。

 

そんな病気の人が、普通に暮らすための仕組み(こう書いていて全然イメージは出来ていないが)、が十分では無いのは確かだ。

だけど、十分で無いという事も証明できないから誰も触れないし、問題にもならない。

本人にだって十分かどうかすら分からないから、お願いすることも、願う事も出来ない。

 

 

だけど一度考えてみて欲しい。自分の生活圏内にうつ病の人がいたら。

仕事場に、いつも遊ぶ友達に、家族に。

心配はするだろう。だけど、それ以上は難しくないだろうか。

 

家族や友達ならまだしも、仕事場にいたら、今まで通りに出来ますか?

ただでさえ大変なのに、そんなことできる訳無いだろうと思う人がほとんどだろう。

見えないなら見えない、歩けないなら歩けないで、分かっていれば計算出来るが、うつ病に関しては、出来ないことも多ければ、計算することも、予測することも出来ない。

 

だから、何とかしてうつ病の人を治して、普通の人の社会に戻そうとする。

それしか助からないからだ。

治らないと認めることは、社会にもう戻れないと認めることになってしまう。そこまで言う勇気がある人はいないし、もしいても悪い人、理解の無い人とけなされてしまうだろう。

 

それに、そんなにも出来ないことがあって、毎日苦しくて、怖くて、そんな人がいたら、どうしたって可哀そうに思ってしまうのだ。

事実としては、出来ない、怖い、苦しい、辛い、それが延々続く。それだけと言いにくいが、それだけと言ってしまえばそれだけで、可哀そうかどうかは本来関係ないはずなのだが。

 

幸せの定義が何か。それは非常に難しいが、うつ病の人は不幸せにしか見えない。とても可愛そうに思ってしまう。

 

本人はもう治るとも思えなくて、だけども、その状態で生きていくしかなくて、何も出来ないけど、毎日必死に闘っている。

うつ病の状態でどうやれば生きられるのか必死なのだが、周りから見れば、どうにかして普通に戻って欲しい、そう考えるのが当たり前のようになっている。

そこの考えのギャップもまた、問題になりうる。

戻る可能性があるのなら、戻って欲しい。自分の為とか、良いとされているとか、そういう事では無くて、可哀そうだから救いたい。そのありがたい優しさが苦しめてしまう悲しい現実がある。

 

 

 

もし、出来ないことが明確で、分かりやすければ何とかなる部分も今の科学ではある。だけど、うつ病には無い。

だけど、うつ病の状態で普通に生活することは出来ない。

だから、どうにかして戻らないと、未来が無いのだ。

だから希望を与えるしかないし、治そうとするしかない。

 

本人はこの状態で何とか生きようと頑張っているが、そんなことは関係ない。無理だと思っているから。他人事と思っているとまでは言わないが、本人でないとなかなかそこまでは考えられない。

 

目が見えない人に何とか見えてもらうように必死で何かをする人はいないのに、うつ病の人には何とか普通に戻るように色々してくれるのだ。

 

だから、うつ病の人を助ける事すらも出来ないのだ。

うつ病の人がうつ病の人として普通に生きられる社会が存在しない限り。

しんどいの向こう側

体の省エネモードというかブレーカーが落ちたみたいと言うか、しんどくて苦しくて怖くて、それが通常のうつ病の自分にも、怖くない、しんどくない、よく言えばスッキリした時期というのがほんとにたまにだが存在する。

 

初めてこの状態になったのは、一昨年ぐらいだったと思う。発病してから今で8年だから、だいぶ後になってからだ。

今もその状態で、2回目。8年うつ病でいて2回だから珍しいのかもしれない。

人にもよるだろうけど、この状態は怖いような気がする。

 

確かにスッキリしてるのだ。何も怖くない。いつもの焦りや不安、恐怖、それらを感じないから。

だけど怖いのは、それだけじゃなくて、感情というか、思考というか、そういったものの概念を失っているからだ。心が死んでいるとも言えるかもしれない。

こういった状態は、うつ病などの精神疾患のある方はちょっと分かるのかもしれないと思う。そうでなくても、ちょっとサボり癖のあると感じている人だったりすると分かる方は多いのかもしれない。

 

分かってるんだけど、やらなきゃいけないんだけど、簡単なことなんだけど、何となく動けない。そういったボーとしている状態に近い。

寝起きが凄く悪くて、ほとんど覚えていないけど、アラームは止めたのはうっすら覚えているみたいな感じの時の、アラームを止めている時の状態の方が近いかもしれない。

 

自分の体のだけれど、自分の体じゃないみたいな感覚はうつ病の時たびたび現れるが、それの強い感じともいえるかもしれない。

 

他には、テストや宿題を直前まで全然やらなかったのに、直前になって急にやりだしたことがある人は思い出してほしい。ストレスがある一定を超えると人はしんどさや面倒くささを感じなくなることがあると思う。

絶対に直前が一番ストレスがかかるはずなのにそのストレスが一番大きい時に出来るというのは良く考えるとおかしいのだ。

 

また、テスト前になると急に部屋の掃除を始めたり、今まで面倒だったことを急にやりだすことがあるが、これも一種のストレスから身を守る方法なんだと思う。

本能的に危ないことを知っているのだ。

しかしながら、残念なことにその先。ストレスの大きさのあまり出来なくなってしまうことがある。

その状態が心が壊れてる状態で、うつ病の一種ともいえるし、感情を喪失してしまう。身を守るためのものにも限界はあるらしい。

 

そういったように、自分の体のことがほとんど感じないのだ。

しかし、今こうやってブログを書いているところからも分かる通り、一日中全くできない訳では無いみたいだ。

でも、このブログを書く、それぐらいが精一杯で、課題をしたり、考えたりは出来ない。

そして、早い人なら30分もあれば十分出来るのであろう作業だが、これだけで丸一日以上かかっている。

 

全然出来無い感がある訳でもなく、不安で押しつぶされそうになって途中で休んだりした訳でもなく、ただただすべてが停止しているのか、一日が凄く早い。

 

症状としてはこんな感じだ。

良く分からない説明だし、分かってどうなるというようなものでもない。

 

どういった時になるのか。自分の2つしかない例からの考察なので信頼度は非常に低いが、なったのは2回とも、

課題などのやらないといけないことに追われている事。

体調がちょっと良くなった時に色々してみようとして、やっている間に悪くなり、自分の普通についていけなくなって、大丈夫かなと思いながら何とか耐えていた頃。

 

こういった共通点はある。

どちらも調子で言えば凄く悪い時であった。

もしかすると良い時は怖い、しんどいといった感情も弱いので、気づいてないだけなのかもしれないが、ここまで感覚が無いことはあまりないので、悪い時になるのはあっている気がする。

 

もう一つに関しても、悪い時は基本何もしてこなかった。

だけど、ある程度良くなって、怖さよりも焦りの方が強くなった時に大学受験や登校、また、休学中ならちょっとジムに行ったり、人のいる所を歩いたりなどの事をしてきた訳だが、この二回とも復学中の出来事だ。

一度休学してからの復学となると、在籍年数や単位の問題もあり、そんなに余裕がない。

休学届を出すことすら出来なかった時代も自分にはあったので、そういった意味でも調子が悪ければ休もう、という考え方を邪魔していたのかもしれない。

 

そもそも頑張る理由が社会へ戻るため、病気を治すために進みたいからなのだ。

この頑張りをやめることは頑張る事以上に体力がいるのかもしれない。

 

しんどくなれば絶対、追い込み過ぎたら絶対になるという訳ではないとは思うが、追い込まれるとなる確率は上がるとみていい気がする。

 

 

こういった現象に名前があるのかは分からないが、自分は「しんどいの向こう側」と呼んでいる。

ラソンでのランナーズハイや、きつい運動や大きい試合の時のアドレナリンが出まくって、疲れや痛みが分からない状態があるが、何となく近いような気がする。

 

問題は、体が無理をし過ぎると怪我してしまうと分かっているのだが、心はどうなってしまうのか分からないという点だと思う。

後もう一つあって、走っているとき、運動しているときは明確にやることがある。気持ちが研ぎ澄まされて、より集中できる等メリットが多いが、心がそうなった時、やることなんて無いのだ。あったとしても心がぶっ壊れているので出来ないのだ。

 

確かにスッキリはしているが何もできない。それに、感覚がなくなるのと同時にすべてがもうどうでもよくなる。

 

カウンセラーの方とお話しした時は、防衛本能のようなもので、そういったことはたまにあるらしい。完全に心のキャパをオーバーしているのに、出来る限りやろうとやり続け、また、無理かどうか、しんどいのかどうか、体と違って分かりにくいので、なってしまうようだ。

 

起きているけど、生きてはいるけど、聞こえているけど、見えているけど、自分じゃないみたいな感覚。

しんどくないけど、何もできない状態。

非常に不思議な状態だと思う。

 

これに関しては推測でしかないが、このスッキリ感、もうどうでもいい感が非常に危険な気がする。

考えられないので難しいことは出来ないが、こんな心が完全にぶっ壊れた状態で、すべてがどうでもいい状態だから。

これ以上は言わないが、この状態になった時、こういう時は危ないんだろうなとは感じる。

 

前回の時はそこでまた大学を休み、1年以上休んだ。それで何とか今に至るわけだが、今回は非常に迷う。

本来迷わず休む一択なんだろうけど、前回とは違い、それはもう大学というものを捨てるに近いものがある。そうなるとどうなるのか。進む先、すがる先がまた真っ白になった時、自分はまた乗り越えられるとは思えない。

 

だけど、もしここで続けて、時間経過ではどうにもならないくらい壊れればどうなるのかも分からない。「しんどいの向こう側」の向こう側があるのかどうか。もしあったとしたらどういった状態なのか。

何も分からないし、現状しんどいの手前側でもギリギリの人間が試しに一回行ってみていい場所ではない。

 

現状完全に手詰まりで、全く使えない頭を使おうとして、どうしようか考えている。

考えいるとは言っても、他の人が見ればただボーとしているようにしか見えないし、おそらくボーとしているだけなのだが、頭が使えないとなると、どうしていいか本当に分からない。

 

何とか、どうでもいいと思わないようにするので必死だ。

こうなったらもう、どうしようもない気がする。周りから見ても気づけない可能性も高いし、気づいたとしても、何をしたら良くなるとかは無いのだからどうしようもない。

 

また、こういう感覚が続くとすべてがどうでも良いというよりは、もうどうにもならないという感覚にもなる。どうでも良いと思わないようにした結果、どうにもならないという残念な結論にしかたどり着かないからだ。

これも非常に怖くて、どうしてもこれにあらがおうとしてしまう。

そんなことないのだと、そうしないと生きる意味を失ってしまうから。

 

こうやって考えようとしたり、頭でどうにかしようとすること自体が悪手で、心に悪いのは何となく分かる。だけど、これはどうしたって止まらない。

これも、この状態の悪い所である。

 

前回はホント良く戻ってきたと思う。

なにも違くはないが、今回は卒業できるかもと思ってしまったことによって、邪魔が入ってしまった。

希望とは良い事ばかりではない。分かっていたつもりだが、痛感している。

 

またしんどいの手前に戻ってきたい。感情を取り戻したい。

どうせ戻ってきてもしんどいだけだけど、感じないのは怖い。

そして、向こう側へ行ってしまう人がいなくなるような、壊れるほど頑張ることのないような世界になって欲しい。

 

出来なかったのは頑張らなかったからじゃない。ただ出来なかっただけなのだから。

正解が目に見えるようになることの怖さとやりたい事という事

正解が世の中に溢れている。溢れすぎている。

今までさんざん正解というものは無いと書いてきて、ここにきて矛盾するようなことを書くが、世の中には正解とされているものが非常にたくさんあるような気がする。

 

正解とは言っても、厳密には正解かどうかは分からない。だけど、多くの人が良いと思っているのか、悪いと思っているのか、これを非常に簡単に分かってしまう社会であると思う。

 

これはインターネットの存在が非常に大きい。悪いとかいう話ではなく、非常に便利で、もう無くては社会が成り立たないと思うし、自分自身どれだけ生活を便利にさせていただいているか想像できないくらい役に立っている。ありがたいものだ。

 

しかし、それによって良い事ばかりではないという事にも気づいておく必要があると思う。

 

インターネットのおかげで、非常に膨大なデータに対して誰でも簡単に、手軽にアクセスすることが出来る。ネット上のものはすべて本当とは限らない、気を付けなければいけないなどという事はもはや当たり前で、多くの人が分かっているとは思うが、特に近年SNSなども当たり前に生活の中に入ってきて、それ以前よりも手軽に意見をいう事、賛同する、反対すると言ったことが簡単になった。

 

それによって、こういった考えはおかしい。こういう事をやるべきだという、社会にとって良いとされていることが凄く分かりやすく、簡単に目に入ることになる。

それを逆手にとってあえて悪い事をして目立とうとすることに関しては今回は置いておいて、良いとされている事に関して今回は書きたい。

 

良いとされている事がみんなに知れ渡っていいじゃないか。みんなが真似すればもっと良い社会になるのではないか。

そう思う人も多いと思う。

 

確かにそうかもしれない。

しかしながら、これは全員が完璧な人間であって、ミスをしなければという事が前提にあれば、という事が条件に付くと自分は思うし、現実はそんなはずはなく、危険な部分が存在していると考える。

 

良い事。みんなが凄い!いいね!としている事。確かにそれは良い事、正解なのだろう。それによって悪い思いをしている人がいるかもしれないし、本当はどうかは厳密には分からないかもしれないが、現に多くの人が良いと思っているのだから、今回はこれをもし良い事、正解なのだとしたらで考えてみる。

 

それがもし不正解だった時に、何年後かに気づいたとしても、その時あれだけ良いとされていたのだからと逃げることも出来るし、そんなことを言っていると自分のように、全く動けなくなる可能性も残っているので、今回はこの場合も無視する。

 

良い事はたくさんあって、こうなるべきという姿はいくらでもある。

特に探さなくたって何かのタイムラインを少し見ていれば勝手に入ってくるし、ネットで何か調べていても全く目につかないという事は無い。

様々な有名人が、成功者が、本当に素晴らしい活動を何度も行っており、それを何万、何十万、何百万、何千万という人が見、感動し、気持ちよくなっているのだから当然だ。

 

そんな有名人みたいになりたい、真似しようと気を付けるのも当然だと思う。

実際問題、金銭的余裕、時間的余裕がすべての人にあるわけではないので、すべてを真似することなんて物理的に無理だし、いくら気を付けたって、簡単なものであっても、出来ない時もある。それは当たり前だが、自分の目指したい先というものが簡単に分かることが出来て、行動しやすくなっている。

 

それらをうまく自分の生活の中に入れて、参考程度に取り入れる、自分というものを一度考え直すという分においては凄く良いことのような気もするが、実際ここまで正解、不正解が目に見えるようになると、不正解をしてみたいという人は減るし、正解をみんながしようとする。

そして、そうなりやすい世の中になっているというのは魅力的なように感じてしまう。

 

一見それは良い事に見える。多くの人が良いと思っている事をする人が増え、嫌なことする人が減り、凄く良い社会になったという人も多いと思う。

 

訳の分からない迷惑行為などは28の自分から見ても昔と比べて明らかに減ったし、凄く生きやすいというか良い社会になったと思う。

 

確かに、こんなことする人いました。などと書いている人がいて、凄く拡散されていることは今でもたくさんあるが、そんなことは昔は当たり前のようにもっとあった。

可視化されて簡単に見れるようになっているので、まだまだ変な社会だと思われる人もいるかもしれないが、自分の感覚としては、社会としては、治安という意味では凄くよくなっているようにも思える。

 

ここまで読むと、良い事じゃないかと思われるだろうが、本題はここからだ。

 

こうなるために一人一人の負担は非常に増している。

良い事をするために、悪いことをしないために、非常に大きな制限があり、何かをしようとするときの障害が多すぎる。

自分が良いと思う事であるならば、気にせずやれば良いという人もいるかもしれないが、正解がここまで見えているのだ。

それを気にせずという事はなかなか出来ない。

 

みんな良い人になりたい。良く思われたい。これはある種、本能のように存在している。

 

そして、やる事、考える事が多すぎるのだ。すべてをすることは当たり前のように出来ないが、そこで完璧な人間を目指そうと、がんじがらめになる人はそこまで居ないかもしれない。

だが、多くの人にとって目指す先、やりたいこと、これが簡単に見えすぎることによって、自分の本当の考え、やりたい事というものがどうしても見失ってしまうような気がする。

 

やりたいことは、良い事の真似なのだ。

別に真似が悪いと言いたいわけではない。頑張って頑張って凄い人に近づく、少しでも良い人間になるという事は別に間違っていない。最短でそこにたどり着くことが出来るのかもしれない。

しかし、そこには非常に怖い危険が待っている。

 

膨大な情報量に飲み込まれて、自分というもの、自分のやりたい事というものを見失ってしまう可能性があるのだ。

 

現に自分がそうなってしまったので、強めに書いてしまうが、良いものというものは実際存在しない。

自分はなんでも楽しくできて、ほんとに器用に色々なものを楽しんで生きてきた。でも、それは誰かにとってそれが良いから、周りにとってそれが良いからであった。

 

それで自分も楽しくて、周りも喜んでくれる。一石二鳥だったのだ。

しかし、今、こうやってうつ病になり、何も出来なくなった。誰かのために何かをするどころか、自分自身の事さえもままならない状態だ。

 

その時にふと考えたことがある。

「俺は何をしたいんだろう」

こんな簡単なことが、当たり前のことが自分には無かった。

 

無かったというと厳密には嘘になるかもしれない。誰かが笑ってくれる、喜んでくれることがしたかった。というものはあった。

だけど、凄く何かの勉強がしたいとか、スポーツをうまくなりたいとか、有名人になりたいとか、そういったものが一切なかったのだ。

もっと言えば、もっと遊びたい、ゲームをしたい、本を読みたい、モテたい、そういったことすらなかった。

自発的にやりたい!したい!と思うことが無かった。自分のやりたいことはみんな、他人目線のものだったのだ。

 

ただただ、良い人になりたかった。

良くも悪くもそれだけだった。

うまく行っている間はそれで良かったのだから、それでいいのかもしれないが、社会にとって良い人になろうという目標は突き詰めれば突き詰めるほど非常に難しく、また、自分がうつ病でなくても何か病気や怪我などで出来ない事が出来た時、足を引っ張る側に立った時、非常に重いただの重りになってしまう。

 

良い人、正解、これを目指すなという訳ではない。

それは多分良い事だ。だけど、それに捉われて、自分が本当にやりたいことを見失わないで欲しい。

 

社会にとって良いことをする。それは確かに大事かもしれない。だけど、あなたにとって一番大事なのは、あなたがしたいことをする事なのだという事も忘れないで欲しい。

 

自己肯定感の低い人ほど、良い人ほど陥りやすいことだと思う。

もっと良い人にって、社会の役に立ちたいって、そうやってどんどん進んでいくことで、自分のしたい事というものを見失ってしまえば、それはあなたの周りの人にとって悲しい事なのだという事も覚えておいて欲しい。

 

そうやって長年生きて、自分を見失い、やりたい事という事も失い、ただ時間を過ごしているだけの俺に言われたくないことだとは思う。

 

ただ、経験者として、良い人、正解を目指すという事だけを追い求めるのではなく、自分というものをしっかりと持って、しっかりと見て、その上で、物事をした方がいいのではないかという提案ぐらいの気持ちでも受け取っていただけると嬉しく思う。

 

失った自分は、自分なのに、一番近くにいるのに、見つけられないから。

自分の人生なのだから、もう少し気軽に、正解とか不正解とか関係なく、やりたい事をやっていいと思う。

法に触れるものはダメだけど、やりたいことを我慢する理由なんて無いし、やりたいことのために生きてると言ってもいいと思う。

小さなことでも、壮大な夢でもなんでもいい。それが本当に大事だとうつ病になって、28になって、やっと分かったような気がする。

 

自分のやりたいことはありますか?

もしあればその思い、大事にしてあげて欲しい。

無い人は一緒に探しましょう。一度無くしたからもう手に入らないなんてことは無いと信じて。