20歳から11年、いまだにうつ病に苦しむ人間の頭の中

20歳までは順風満々だった男がうつ病になり、すべてが終わったと感じてから、日常生活をぎりぎり生きられるようにまでは戻った人間の現在

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なぜうつ病患者は無理をするのか

うつ病になると絶対に言われる言葉「ゆっくり休みなさい」「無理せずに」

実際に全員から聞いたわけではないが、ほとんどの人が言われたと思う。

自分自身もうつ病になってから、医師やカウンセラーを含め、多くの人に病気であることを打ち明けたが、そのほとんどの人から言われた。

 

中には、「難しいのは分かるけど」「よく言われるから嫌かもしれないけど」と現状を理解している人もいる。

 

そんな分かり切っていることなのに、なぜ言うのか。

 

何となく心配はしているけど、かといって変なことは言えない。だけど何かしたいという気持ちもあるという中で、これは間違っていないんじゃないか、という言葉がこれしか無いからという事も確かにあるが、

うつ病の人は分かっているのにもかかわらず、無理をしてしまうからだ。という事も理由の一つとしてあるとは思う。

何かしようとしていたり、焦っているように見えることがあると思う。

 

 

本人は、焦ったり、出来ないことをしようとする事、無理をすることはダメだという事は分かっている。誰よりも分かっているはずなのだが、何もせず、ただ休み続けるという事はそれ自体が大変なのだ。

 

 

休むことについては過去何度か書いてきた。

それだけ非常に大事なことで、でも非常に難しい。何度も何度も考える事だ。

 

答えが出たという訳ではないが、ちょっとおもしろい考え方が出来たので、重複する部分もあるが、書いてみたくなった。

今回はなぜ休めないのかという事について焦点を当てていきたい。

 

 

休めば、病気が良くなるという人もいるが、それは嘘のように聞こえて仕方がない。

もし本当だったとしても、1年や2年休むことで治るものではないと思う。

 

治る人もいるかもしれないが、一生休み続けても治らない人は存在していると自分は思う。

 

ただ、何もしない、家で一人でいる。

寂しいとか、しんどい、楽しくないという事は経験のない人もパッと思いつくだろうが、何よりもきついのが、一歩でも進んだという目に見えた成果がないという事だ。

 

冷静に考えてみれば、第三者から見れば、進んでいるようにも見えるような気もする。

確かに外に出られる、学校に戻る、少しなら人ごみに出られるなど、個人差はあるとは思うが、少しずつ進んでいるのに、なぜかそれでは満足しないのだ。焦ってしまうのだ。

 

確かに前へ進んでいるのかもしれないが、前を、普通をずっと見てしまう。一種の現実逃避かもしれないし、これからの長い道のりに対して立った一歩という短い一歩であって、中々気づきにくいのかもしれない。

もしくは過去の経験として、一時的によかったとしても、後から無理していたんだと気が付き、結果的にその一歩は前へ進んでいなかったというトラウマがなかなか進んだように感じさせてくれないのかもしれない。

 

 

快復に向けて全く進んでいないという事は、これからもずっとこの状態であることを意味しているように感じる。しかしながら、現状の状態ではどう見ても長く続けられるとは思えない。

実際、自分は病気になってから8年生きてはいるが、なぜ生きていられるのか不思議だ。死んでいたとしても不思議でない。それほどの不安感、恐怖感の中にいて、何もしないという事を選択するのは非常に難しい。

 

かといって、何をすればいいのか、どうすれば治るという事もまた無い。

だから、藁をもすがる気持ちで何かに挑戦し、そして砕けていく。

 

病気の間は本当にこの繰り返しだ。

こういう現状を見れば、周りは休みなさいと言うのも無理はない。何回もこうやって失敗していると、冷静に考えることもある。自分でもそう思うし、焦って何かすることに意味があるとは思えない、休んだ方がいいのだろう。

 

だけど、何かを始めたい、何かをやってみたいという気持ちを抑え込むことは無理なのかもしれない。

 

 

うつ病になると、何も楽しめなくなる。」こういった言葉を聞いたことがある人も多いと思う。

全員がそうでは無いと思うが、自分は楽しいという事はほとんど無くなってしまった。

だけど、うつ病になったから楽しいことが無くなってしまったとしても、楽しいことが無くなったからうつ病から抜け出せないのか、まだうつ病だから楽しめないのかは微妙なラインだと思う。

 

 

自分の場合で考えると、自分は人生の絶頂というときにうつ病になった。

多分自分が気づいていなかっただけで無理をしていて、壊れたんだろう、と勝手に解釈しているが、そこから見ると楽しいことが無くなったからうつ病になるという事は矛盾しているようにも見える。

 

もしかすると、楽しいとは自分は確かに感じてはいたが、それ以上に何かを考えたり、無理をしていて、気が付いてなかっただけで、トータルでしんどかったのかもしれないので強くは言えないが 、確かに楽しいという気持ちはあった。

しかしながら、今同じように友達と話したとしてもあの頃のようには楽しめない。

確かに楽しい気持ちは出て来るが、それよりも不安感が襲い、また、今まで以上に考えすぎてしまう。

そしてその後、止めておけばよかったと後悔する。その場では楽しいように感じるが、今の自分にとっては、楽しいよりしんどいのだろう。

 

 

うつ病から抜け出せないという事に関してはどうだろうか。

 

心が壊れてから数年何も出来なくなってはいたが、何か出来ていたこともあった。

どこか無理しているのではないか、大丈夫なのかと慎重になっている部分は確かにあったが、本当に楽しいと思うことがここまで無いのは変ともいえる。

 

そこから考えれば、病気のせいで楽しめないという考えが正しいようにも見えてしまうが、だとしたら救いようがない。

何したって楽しくないのだから、これからも楽しくない人生を歩むしかないのだ。どれだけ無理をしようと、運に恵まれようと、楽しくない。そうは思いたくないだけかもしれないが、思いにくい。

 

 

もしそうなのだとしたら、ただひたすらに休んで、何もしないで、病気が治るのを待ち、それから楽しい事、好きなことを見つけるしか救われようがないが、それが出来る人間はいるのかどうかすら怪しい。

何年もただ我慢をすること。これがもし最適解なのだとしたら、治すことはほぼ不可能だと言っても過言ではない気がする。

 

 

だから、どうしても、「楽しいことがないからうつ病から抜け出せないのだ」 という結論に至る。

 

正しいかどうかは分からないが、そう信じたい。そうどこかで願っているのだと思う。

ここで難しいのが、楽しいと思えるハードルの高さが変わってしまったことである。

同じことをしていたとしても、気持ちの底、普通では感じることのできない絶望を超える恐怖、不安を見てしまった後では、どんなことであっても怖い。

ただ生きるだけ、それだけですら押しつぶされるほど怖いのだ。

 

 

少し分かりにくいような表現になってしまったが、

気持ちというものに数字を付けてみたらどうだろうか。

フラットな状態を0とし、やりたいこと、楽しい事程高い点数をつける。やりたくない、しんどい、怖い事程低い点数をつけるとする。

 

すべて主観的判断になるので正しい点数は付けれるわけではないとは思う。自分では気が付いていないだけで本当は、、という事も多々あるとは思うが、ここでは本来の意味というよりは感じ方という点でやってみたい。

 

 

普通は物事をするかどうか迷ったときなどに、意識せずに考えている人もいるような気はするが、これは自分にとっていいものなのかどうか、やるかどうかは少しでもプラスかどうかが判断基準になると思う。

 

しんどいけど楽しい。つらいけど頑張った先に何かがありそうと思うからやるのであって、しんどいし辛いし、出来た後も別になぁと思っているけど、やらない選択肢をとったときに物凄く怒られて捨てられるかもしれないから相対的にやった方がいいと思うからやるのである。

 

どう考えてもマイナスの方が大きい方をやる人間はほとんどいない。もしそうだとしたら点数の付け方がおかしいのだとも思う。

 

 

しかしながら、うつ病の人間にとっては、もう仕方がないマイナス要素しか残っていないことが多いのだ。

これはうつ病の人にとって基準値が変わり、今までの50がフラットな状態になってしまったとしても良いし、すべての点数が下がった捉えてもいいだろう。

出来る事が少なくなり、何もしていない状態であっても、意味の分からない恐怖感に襲われる。何をしていたとしても不安で仕方がないのだから両方と捉えても良いと思う。

 

 

人生において短いスパンで見ればマイナスな時期は、誰しもあるのだろうが、うつ病の人間にとってはそれが永遠に続く。

プラスになりそうなものも無く、ただひたすらに積みあがっていくマイナスを耐えることが人生となっている。

 

 

このプラスのものが無いという事が非常に効いてきてしまう。

楽しい事ややりたいことを失う。これは病気のせいであったり、何か大きな出来事のせいであると思うが、これを失い、自分のすることすべてをマイナスに捉えるようになると、希望が無くなる。

 

今しんどいことが多少楽になったところで、マイナスはマイナスなのだ。

不安を取り除こうが、さまざまのものを切って、辞めて、マイナスの度合いを下げ、項目を減らしたところでマイナスなのである。何をどうしたってマイナスなのだ。

 

あり得ないという人もいると思うが、現に自分がそうだ。ただ気が付いていないだけなのかもしれないが、気が付いていないプラスはもはや無いのだ。

時間がたって、あの時のあれが良かったのかもしれないと思うことはあったとしても、その時点で楽しいと思うことは無い。

 

「生きているだけで丸儲け」という言葉もあるが、それはたった1であったとしてもプラスがある場合だと思う。トータルで大幅なマイナスであったとしても、1だけプラスがあるなら、もしマイナスの分目をつむることが出来れば丸儲けと感じられるのかもしれない。

だけどもしその1すら無かった場合は何にも儲けは無いのだ。

 

話を戻すが、自分にまつわることに数字を付けた時、休むという事は、この数値を減らすことであると捉えられると思う。会社を辞めたり、友達と離れることは項目を減らすことだろう。

 

それをしたところでプラスになりうるものを持っていない者にとって、そういったことを色々としたところでマイナスはマイナスなのだ。

 

もし何かこれがしたい。これは楽しいという事がある人は、本当にそれを大事にして欲しいと思う。

 

長い期間やっていれば、飽きることも、嫌いになることも色々あるだろうが、プラスになるかもしれないという期待があるというだけで全然違う。

 

今の俺にはマイナスのものしかない。気持ちの波はあるし、大きくマイナスの時もあれば0に近い時もあるが、どう転んだってプラスにはなれない。

そのつらさは半端じゃない。

 

 

もしゲームなら、お金なら、一度リセットした方がいい。生き続けてもマイナスが膨れ上がるだけで、上がり目が無いのだから。

だけど、命は一つだから、持ち続けるしかなくて、ただひたすらに膨らみあがるマイナスを背負い続けている。それしか出来ない。

 

もし、何か好きなことや、やりたいこと、楽しいこと、プラスの点数をつけることがある人であれば、それを残して休むという事はとても効果的なことなのかもしれない。

しかし、それは、もし好きなことがあればという前提の下である。

何かしらやりたいことがあるというのは、普通の人からしたら当たり前なのかもしれないが、それが無い人間もいるという事は分かって欲しい。

 

こういう事が、休むという事が良い事のように思えるが、本当はそうでは無いという事の理由であり、うつ病の人の気持ちが分からない理由の一つではあると思う。

 

 

だから何かをする。

 

項目が増えることは一見良くないことのようにも思える。

ただでさえ何も楽しくなく、何をするのも怖い状態で楽しいことを探しても、見つかるのはよりしんどい事ばかりだ。

 

最初は楽しいような感じがしても、楽しいことを見つけたいという思いが強すぎて、そういう風に思い込もうとしているだけで、実際は凄い無理をしていて、気が付けば振出しに戻る。もしくはさらに下に落ちると言いう事ばかりだ。

 

 

だけど、希望がないから少ない確率だろうと、ほんのちょっとだけのプラスであろうと動きたくなる。項目を増やすことに対する期待値は大幅にマイナスなのは分かっている。それでもプラスになるかもしれない項目というものは、その危険を分かっていたとしても手に入れたいものなのだ。

 

 

動けない時は何もできないが、休んで休んで、マイナスの量が減った時に探して、落ちる。見方を変えれば、、ゆっくりゆっくり上がっては、せっかく上がったのにもかかわらず勝手に自滅する。何回も何回も。

周りから見れば馬鹿でしかないのかもしれないが、プラスになれる項目の無い人間にとっては自分の理論値が0なのだ。

1でいい、ほとんどマイナスなものでもいい、プラスになれる可能性のあるものが欲しい。

 

どうあがいても0であるという事を受け入れて生きるという手もあるかもしれないが、それで納得できるほどまだ人間出来てない。

 

それに、マイナスが膨れ上がる中、その中でずっと生きてきた人間には分かることもある。

 

ここまでは意識がある。ここまでは生きられるらしい。

それは何となくわかるし、現実問題、マイナスがある程度大きくなった時、体は言う事を聞かなくなるし、頭も動かなくなるから死ぬことはない。多分。

 

外的要因で下がる事もあるし、周りから見て怖いのは分かる。だけど、このまま傷だらけでさらに傷を受ける状態の場所に居続けることも怖いのだ。

 

一度にどれほどのマイナスを受ければ危ないのか、どれだけのマイナスを積み重ねれば壊れるのか、はっきりと分かっているわけではないから、大丈夫では無いのかもしれないが、どうせじり貧なのであれば、何かあがいて終わりたい。

 

何でもいい。

希望が欲しい。

 

 

休んで得られることは

-+関係なく項目を減らすこと

-+関係なく絶対値を減らすこと

だと自分は感じている。

 

楽しいことの方が減りやすくて、しんどいことはなかなか消えないことが多い気はしなくはないが、減らすことは出来ると思う。

 

だけど病気になって、+の要因が消えてしまった時、マイナスを減らすことだけが正解とは思いにくい。

 

 

何もできない時はそれでいいというか、それしかできない。

 

だけど、どうにかしてプラスになることを見つけたい。

 

もしかすると、俺がそう思っているだけで、実際は休み続ければマイナスのものがプラスに変わるかもしれないし、どれだけ探したところでプラスのものは存在しないのかもしれない。

 

でも冷静になって考えてみると、出来る事、やれていることはあったりもする。

過去も少し続いて楽しいと思えていたこともあるし、挑戦は何度もしてすぐにダメだとなるものばかりでもないので、一時的にはある。

しかしながら、結局振り返ってみると、あれはしないほうが良かったと思ってしまっているために、それらを評価していないだけで、一時的とはいえ楽しかったは楽しかったのだから評価すべきだろうとも思う。

 

こうやってブログを書き続けることだってプラスなのかもしれない。

マイナスが大きすぎて、普通に生きたいと言いう思いが強すぎて、上ばかり見て生きているから気が付いていないだけで、下を見れば、出来てるじゃんと言えることはあるのかもしれない。

現時点では底ではないし、休んでマイナスを減らすだけとはいっても-100からー50になれば50のプラスだともとらえられる。

それがもし上限-20のものであったとしても、それを喜ぶという手もあるのかもしれない。

 

だけど、だからと言って、それで満足しろというのは厳しい。こんな状態で楽しいことがあるのかは分からないけど、あったとしても、また落ちた時、それが足かせになる可能性も高いけど、

何かしたいんだ。

 

やりたいことなんて、勝手に出て来るもので、探し当てるものではないような気もするが、それだけが希望なんだ。

 

 

そこだけが希望だから。

楽しいって少し思いたいだけなんだ。

一緒に探してくれとは言わない。助けてくれとも言わない。

見守ってくれるとありがたい。

 

無理なのは本人が一番よく分かっている。

それでも動きたい。無理してでもやりたい。

そう思ってしまうことを理解するのは難しいだろうけど、どうか見守って欲しい。周りにもし自分に似たような人がいるなら、こういった考えの可能性もあると思って欲しい。

誰にもうつ病の人に対して何かいいことをすることは不可能かもしれないが、少しでも分かるという事は凄く重要なことだと思う。

 

 

うつ病の人間が無理をしていたり焦っている。

どう見たって馬鹿にしか見えないかもしれないし、その馬鹿によって迷惑をかけられている人もいるかもしれないが、分かってくれる人が一人でもいてくれると嬉しい。

 

 

そして、うつ病の人がもし楽しんで何かをやっていたら影から応援してあげて欲しい。

そのい人は大きな一歩を踏み出せたのだから。

もしかすると、何休んで遊んでんだよと思ってしまう人もいるかもしれないが

くれぐれもその一歩を砕くようなことはやめて欲しい。