今、自分は何をしているのか。
たった今の自分のことを考えれば、頭で色々思い返したり、考えている。また、キーボードを使って打ち込んでいる。皆さんはこのブログを読んでいることと思います。また何かを考えたり、思い返したりしているかもしれない。
ほかのタイミングのことを考えても、意識的に何かをすることもあれば、何も意識することなくても、何かしら考えたり、動いたりしている。
人はこのように、何かしら「して」生きている。
短い時間のことを考えれば、人は息さえすれば生きていけるはず。
それなのに息だけをして生きている時間というのはほとんどない。
予定が全くなく、何もすることがなかったとしても何かしら考えてしまう。
自分がうつ病になったとき、初期のころは本当に何もできなかった。
一日のほとんどをベットで過ごし、何も行っていなかったのだが、起きている間はずっと後悔と自責の念、罪悪感で埋められていた。
それを半年ほど行ってきた。
半年もの間、考えることは全くないはずなのに、やめることなくずっと考えていた。
病気がましになってからも数年、社会的にみてほぼ無の存在で数年過ごしていたが、その間もずっと、考えていた
何も考えていないといえる時間はなかった。
別に考えたかったわけじゃない。
むしろ、途中からは何も考えないようにするために頑張っていた。
それでも、病気になり、このことについて意識し始めてから8年間、何も考えないということは出来ていない。
社会から離れ、接触も家族との一瞬だけ、予定もすることも、したいことも何もない、何も考えることのない状況に長年身を置き、少しずつ社会に復帰しだしてからも自分を見つめ、自分と向き合い続けてきた。ずっとやろうとしていたのに、
なにもしない ということができなかった。
今も、瞑想や座禅のようなことを時々する。
病気は、悪かったころと比べて大分よくなったのだが、未だに何かしら考えてしまう。
無心にはなれない。
未だに過去を悔やんでいるのか、迷いがあるのか、何かを欲しているのか、焦っているのか、怒っているのか、はたまた何も考えないでおこうということ自体を拒んでいるのか・・・
これすらも自分は分からない。
今までの自分、自分のしてきたこと。これは自分の中で何度も見つめなおし、しっかりと向き合い納得した。納得したつもりだ。
だが、納得できていないのだろう。どれだけ考えたところで、悩んだところで、過去は変わらない。今どうあるか、どういるかだけが今の自分なのに。
わかっている。いや、わかっているつもりだが、まだわかっていないのだろう。
無の境地に達するとか、悟りを開くとか、そのようなたいそうなことは出来なくていい。
ただ今の自分を認めたい。
それでも何もしないことすらできず、邪念が心に染み込んでいるのが今の自分だ。
それだけでも分かっただけで、今は満足している。
いつの日か、無心で自分と向き合い、なんの飾りもないただの自分をしっかり見て、そのまんまの自分を納得できる日が来るのだろうか?
そんな邪念を抱えながら、今日も壁に向かって座っている。