自分は極めることが出来ない。出来ないというよりは極めることが嫌いなのかもしれない。
ただ頑張る、努力するといったことが嫌いな甘えだ、ともいえるかもしれないが、何かを極めようとすると、どんどん飽きてきて続けることが出来ないのだ。
昔から勉強もスポーツもそこそこは出来た。自慢じゃないが、センスあるや、才能あるとよく言われたりもした。しかし、何かで全国大会に出たや、全国トップレベルの学校に行ったなどの結果も無ければ、自分で自信もって、これは出来ると思えた分野は一つもない。すべてそこそこ以下で終わってしまうのだ。
そこに行きつくまでにやめてしまうか、他のものに手を出してしまう。
ただ努力を怠っているだけ。そういえばそれで終わる話かもしれない。
しかし、それ自体のことを自分の性格と受け入れられれば、世界の見え方も少し変わる気がする。
よくあることとして、スポーツでも勉強でも最初の方が伸びしろが多いし、成長を感じられることが多い。だから始めたころの方が楽しいというのはある。
しかし、何かを極めてからも、そこからトップレベルの勝負の世界の楽しさも必ずあるはずだ。
その世界の楽しさは、多大な努力の下でしか得られないので、甘えているともとらえられがちなのかもしれないが、そもそもトップレベルの勝負の世界の楽しさを魅力的に感じないのだ。
そうなるとなかなか一つの分野を極めようというモチベーションは生まれない。
逆に、色々な分野に興味があり、どんなことでも楽しめる性格でもある。屋内の文科系のものから、ゴリゴリの体育会系のものまで、今までいろいろな分野に手を出してきて、どれもとても楽しくやらせていただいてきた。いろいろ手を出してきた分、何かで結果を出してきたわけではないが、楽しくできていた。
その中で、振り返ってみると、どれも、効率をどんどん求めて行ったり、うまくなる、勝つためにやらなきゃと感じたり、指示されることが多くなると、それ自体は好きなのに、どんどんやらなくなってしまう。という傾向がある。
ゲームなどでも、攻略サイトを見てしまうともうだめだ。それまでどれだけ楽しくても、見てから一週間も持たない。
やりたいように好き勝手やりたいだけなのか、指示される、やらされることが嫌いなのか、詳しいことは分からないが、どれだけ良いレールだったとしても、その上を走れないのだ。
上手くなるため、強くなるためには、どうしても効率よくやらなければいけない、というのは分かる。これだけ情報があって、先人たちの残してきたものを無視して、自分流にどれだけ頑張ったとしても、相当な才能がない限り、その分野で上り詰めることはできないのは分かっている。
それでもやっぱり自分にはこのやり方は向かない。
世の中で成功者とよく言われる人は何かを極めた人だ。
仕事、スポーツ、収入、地位、スタイル、面白さ、IQ、人気、なんであっても極めた人が成功者と言われる。
マルチタレントというように色々なものをやっている人もいるが、その人たちも何か一つの強みがあるからこそであり、器用貧乏と言えるような人はなかなかいない。
そうなると成功者、凄い人、イコール何かを極めた人と思ってしまうのは仕方がないとは思う。
しかし、誰しもがその場所を目指すべきなのだろうか?
その場所に立てられれば、また世界が変わるのかもしれないが、そこを目指さなくてもいいのではないのだろうか?
誰しも向き不向きがある。
これは、向き不向きがあるから、自分の向いているものを探してそれを頑張りなさいというようによく使われるが、そもそも、何か一つを頑張るのが向いていないという選択肢は無いのだろうか?
強みがないというと、中途半端な、しょうもない人間と思われるかもしれないが、器用貧乏な人は色々な分野をそこそこ出来る。好き嫌いが少ない。ということは、柔軟に物事を見れたり、広い視野が持てる、切り替えやすい、だれとでも分け隔てなく仲良くできる等、特化型の人では難しいかもしれないことに強い人が多いように感じる。といったように良いこともあるように感じる。
何か大きい長所や強みがある人は単純に考えても凄いと分かり、うらやましく感じることは多い。あこがれる気持ちもよくわかる。トップなんだから凄い。簡単な話だ。
でも、だからと言って器用貧乏な人が悪いというわけではないと思う。
自分の性格を捻じ曲げて、無理をして何か長所をわざわざ作らなくても、十分な魅力があるのだ。
人それぞれ様々な性格があるし、得意不得意も人によって違う。
その中で、良い悪いと評価されることも多々あると思う。しかし、良い悪いなんてそんな簡単に判断できるわけがないし、誰しもが違った魅力があるのだ。
確かに、よく言われる成功者の姿とは違うかもしれない、でもそれが正解かどうかなんて誰にも分らない。
器用貧乏でも、そのままで十分成功する可能性なんていくらでもあるのだ。周りに認められなかったとしても。
認められたい。そう思うこともよくあった。初対面の人や肩書ではどうしても理解されなかった。でも長年いると少しずつ分かってくれる人は必ずいる。
わざわざ何かに特化しなくてもいい。自分がどうであったとしても、自分自身のそのまんまの姿を受け入れる。そうすることで自分の良さがもっと出ると思う。