差別していいと言っているわけでは全くないし、差別を許容するようなことは全くいうつもりはない。
まず初めにこれは言っておきたい。
差別は許されないものだし、無くなって欲しいと強く思っている。
そういう事ではなくて、差別を無くすために動いている運動の内容について、自分が感じる違和感という事について書きたい。
よく目にする事だとは思うが、差別されている、されていた側に良い所がたくさんある。凄い所があるという意見だ。
こういう考えによって差別を無くそうとしているわけではないとは思う。基本軸としては、「みんな同じ人間なのだから」という事が、ほとんどの根底にあって、その理解を進めるために言われていたりする事なのだろうと、解釈することは出来るが、こういった意見に対して凄く変な感じがする。
差別されている側にも優れている部分があるから、良い所があるから、差別しなければメリットがあるからとか、だから、差別してはいけないとかそういうレベルでは全くない。
だから差別をしないなんて言うのは何の解決にもなっていないと思う。
全くおかしな話だ。
例え、ものすごく嫌な奴であっても、何にもできない奴でも、デメリットだらけの人間だったとしても、同じ人間なんだという事。
差別する理由には全くならないという事。
それを理解している人間はどれくらいいるのだろうか。
するデメリットしないメリットを考える時点で差別をしているのではないかとも思う。
よく、差別と区別は違うとは言うが、区別のつもりであったとしても、そこに優劣が入っているのであれば、それは差別なのではないだろうか。
同じ人間という事を忘れてしまっているのではないだろうか。
差別問題から発展して、生きる上での考え方に通じるものが自分にはあると思う。
メリットデメリットを考えてしまっていないか?
自分を差別してはいないか?
うつ病になって初めは、こういった考え方はほとんどしなかったが、ある程度自分の考えや症状と付き合い、考えているうちに思うことが度々ある。
他人がサボっていたり、仕事をしていなかったり、留年したり、助けられて生きていたとしても、悪いとは思わないし、どんな人生の在り方も良いと思える。
他人が休んでいることに対して何か嫌な感情になる事はないのに、自分の事となると、それが思えずにどんどんと深みにはまってしまう。
自分を責め、低く見、知らない間にどんどんと傷つけてしまう。
どれだけ説得してもどこかこの考え方がある。
同じ人間なのに。
差別問題を考えるに当たって、自分と他人を比べるのは変な感じがするが、同じ様に考えてもいいはずではあると思うし、その理論で行くと僕は自分を差別している。
これは多分区別ではない。低く見ている。
別にいくつになって学生であってもいいはずだし、全く稼げなくたって、おんなじ人間のはずだ。
助けられていようが、何も出来なくなっていようが、おんなじ人間のはずなのに、低く見ている。
分かっているはずなのに。
うつ病は病気だから甘えじゃないという言葉もよく聞く。当たり前と言えば当たり前で、それは絶対にそうだと思う。
でも、それをわざわざ言わないと否定的に見てしまうという事が、当然のように存在しているからこそ、こういう言葉が生まれているのだとも思う。
別にどんな生き方をしていたって良い訳だし、もし病気とか関係なくただ甘えて生きているのだとしても全然かまわないわけだ。
だから本来、うつ病は甘えじゃないですよ。なんて言わなくたっていいはずなのだ。
もし甘えだったら何か?甘えじゃないからどうなのか?
そんなことは思わなくていい事のはずだ。
だけど、どうしてもそう思ってしまう。
どこか、稼げない人間は、何もできない人間は、同じ人間ではなく、劣った人間だと思ってしまう。
自分の中にも、まだ、どこか自分を差別している部分がある。
色々な考えで、それで良いと思おうとしているが、中々出来ていない。
そんな自分がこんなことを言うのは、おかしいのかもしれないが、差別をしないという事に当たって、良い部分を探そうとすること自体をどうにかしない限り、差別というものは無くならないとも思う。
これが、世間的に見た、劣っている側(こう書くこともおかしいのかもしれないが、自分ではどうしてもそう思ってしまうのでこう書いたが)に立って、立たされて、自分をどうすれば差別的に見ないようになるのか考えた挙句に自分が出せた答えだ。
これが正しいのかどうかは分からない。間違っていたとしても、良い所などを知ることによって差別がなくなっていくのであれば、そのほうが良いのかもしれないが、それでは救われない人間というのが出てきてしまうような気がする。